読書日誌

2021/08/16

馬はなぜ走るのか

 走って(ジョギング、早歩きでもよい)、汗をかくと(人さまざまなかき方があるだろう)、誰しも(むろん全員が、ではない)、多かれ少なかれ(かなりの差はあるか)、ハイな気分になる(のではないか)。
 アドレナリンが脳を刺激してとか、脳内モルヒネが働いてとか、とはよく言われること。
 なぜ、こういうメカニズムが人間の内部に出來上っていったのか?

 石器時代以来、人間の身体は狩猟による食料確保に適合すべく、進化を遂げてきた。
 生きるために走る。走るために生まれた
 そうして食物連鎖における最上位を獲得した。

 他の動物、たとえば馬はどうか。
 馬は草食動物なので食物連鎖は下位の被食動物(上位はチーターとかライオンなど肉食系)。

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   「馬はなぜ走るのか やさしいサラブレッド学」 辻谷秋人 三賢社 2016年刊行

 副題にあるようにサラブレッドが対象だが(そしてむろん競馬が舞台なのだが)、そもそも「馬は好きで走っているのか」から始まって、「人の価値観、馬の行動原理」「馬だから競馬はできた」と受け、「競争馬に必要な能力」、「馬はどのように走っているか」、「馬はこうして競走馬になる」と展開し、「馬にとっての報酬」「馬にとっての幸福とは」で終わる。

 著者は生物進化の歴史から、馬の動き方、常歩(なみあし)・速歩(はやあし)・駈歩(かけあし)・襲歩(ギャロップ)への脈絡を語る。 ・・・・・・・・ 魚類は脊椎を左右に動かして泳ぎ、上陸を果たした両生類は陸上を泳ぐ、つまり胸ビレと腹ビレを地面に引っかけて前進し、このヒレ=前肢・後肢の動き方は馬の常歩と同一である、爬虫類では速歩を、哺乳類になって駈歩・襲歩を獲得する。二足歩行の人間も両生類の常歩を捨てたわけではない。たとえば幼児の這い這い(あるいは大人の四つん這い)での前進は両生類や馬の常歩(左後肢―左前肢―右後肢―右―前肢という順番)の運肢となる。・・・・・・・・

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 さらに、多くの科学的知見を取り入れ、・・・・・・・・ 四肢骨の構造や筋肉(速筋・遅筋)、走行中の呼吸法、有酸素・無酸素運動の人間との比較、レース中の運肢の変化(スタート、コーナー、直線)、レース距離への適合性、血統の重要さ、・・・・・・・・ そうしてレース現場で実際に起こった状況(ディープインバクト、オフェーブルなど)を解析してゆく。

 加えて、生産牧場と育成牧場の関係、競馬場に関してはダートと芝の違い(単に土と芝だけの違いではない。砂のまじり具合とか、芝の種類・性状の違い、外国と日本の違い)、などなど、競馬に全く無知なぼくにとっても非常に面白い。

 で、馬はなぜ走るのか?

 馬は好きで走っているのではない、人間の要求を受け入れて(否応なしに?)走るようになった。より速く走れる馬となるべく交配を重ね、走るために生まれてきた。走らなければ、走る場がなければ、競馬がなければ、馬(サラブレッド)の生きる場所はない。 ・・・・・・ 著者の結論である。

 しかし、これは動物愛護の観点からはいかがなものなのか?
 最後に筆者は語る。

 彼らは人間から走ることを求められている。 ・・・・・ 走る場所があって、彼らが走ると喜ぶ人がいる。それは悪いことではないし、むしろ幸せなことと言ってもいいのではないか ・・・・・ 実は私たち人間が求めている幸せというのも、案外そういうことではないかと思ったりする  ・・・・・・・・

 食べられないために、走る、逃げる。
 ウイルスとの戦いでは今のところ我々は逃げきれていない(先行逃げ切りの失敗、政治的失策!)、最後尾グループが少しずつ捕獲され続けている(・・・などという表現は不適切か)。

 猛暑と各地で大雨災害を惹き起こすような天候のくりかえしで、思うように走れない今日この頃、たまたま競馬好きの息子が読み捨ててあった本書が一服の清涼剤になったかどうか、いやいや、敵も手を変え品を変え、人類を脅かし続けている。年内にはピークアウト、沈静化できることを切に期待する、祈る。

 

2021/08/01

オリーヴ・キタリッジの生活 

オリーヴ・キタリッジ、ふたたび」は、すでに老域にある主人公の夫との死別、74歳での再婚、その相手との死別、独居中の心臓発作、入居した老人ホームで過ごす86歳までを描いた、老人文学とも呼ぶべき作品であるが、本作はこれに先立つこと10年程前に発表された。
 元中学校の数学教師だった主人公の40代から70代までが前作同様、13の短編からなる連作で描かれている。

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  「オリーヴ・キタリッジの生活」 エリザベス・ストラウト 2012年 早川文庫(2010年刊)

 各連作中、主人公はしばしば入れ替わり、大元の主人公オリーヴは時に脇役、端役を演じることで全体の流れの中で印象をかえって際立たせており、これは「ふたたび」に繋がる手法。
 時間軸が所々でいきなり前後したり(回想とかで)、小さな町の世界ながらたくさんの登場人物の名前が次々に飛び出してくるので(意図的な不親切っぽい作為?)油断ならない、時々読み返す必要がある、と、これも「オリーヴ・キタリッジ、ふたたび」で提示されていること。

 40代のオリーヴはまだ女盛り(大女だが)、1歳年下の夫ヘンリーは人間的にいわゆる「良い奴」で、自己主張が強く(あからさまな態度にはあまり出さないが)頑固なオリーヴとは必ずしも相思相愛(古い表現か)とはいえず、意見の衝突することはしばしば。

 もう若くはないヘンリーが娘ほどの年齢のアルバイト女性に対してかなり思いつめた恋情に駆られたり(むろん成就することはない)、オリーヴもひょっとした隙間に若い男に好感を抱いたり(70代になっても)、と、お元気というよりは、人間が年齢に関わりなく内蔵する感情・意志をさり気なく表現している。著者の人間性によるものなのだろう。

 中年から現役を退いた老年期、夫は脳卒中で倒れ、介護施設で他界し、溺愛する一人息子は鼻っ柱の強い嫁と離婚し、「多産系」女性と再婚し、自分から離れてゆく(子離れができないのは一種哀れ)。

 この間、教え子の自殺企図、街の顔役の愛人(若くない)とそのかつての恋人の苦い再会、老境に近い男女の不倫・離婚への幻想、若い娘の摂食障害と持病の心臓病での急逝などなどが、綾織物のように入り組みながら語られる。

 ―― オリーヴは目を閉じて、土壌や、出てくる植物のことを考えた。すると学校の隣のサッカー場を思い出した。教師をしていた日々のこと。・・・・・・・ ああいう秋の日の空気には美しいものがあった。また汗をかいて脚を泥だらけにした若い身体にも、思い切りヘディングしようとして突っ込む元気な姿にも、美しさがあった。ゴールが決まったときの歓声も、がくっと膝をついたキーパーも、また美しかった。・・・・・・・ そういえば、と思い出す日々がある。まだ人生の盛りだった中年の夫婦として、ヘンリーと手をつないで帰っていった。ああいう瞬間には、静かな幸福を味わうという知恵が働いただろうか。おそらく、わかっていなかった。たいていの人間は、人生の途中では、いま生きているということがわからない。だが、いまのオリーヴには、何かしら健康な、純粋な、記憶として残っているものがある。あんなサッカー場の瞬間が、オリーヴの人生にあった最も純粋なものかもしれない。そのほかに純粋とは言いがたい記憶も多々あるということだ。・・・・・・・・・・

 だれしもが老いて、あるいは老いずとも、いずれこの世を去る。良い悪いではなく、どうにも思うに任せぬままの生きかたで存在する、せざるをえない。どの登場人物にも儚さ、やるせなさといった風情が漂う。

 最終場面で互いに連れ合いを亡くした老人同士が川端で出合う。

 ―― いま青い目がオリーヴを見ていた。弱々しく、また誘うような、不安げな目、と思いながらオリーヴは静かに腰をおろし、手のひらをジャックの棟にあてた。心臓の鼓動がわかる。いずれは止まるのだろう。どんな心臓も、いつかは止まる。だが、きょうはまだ“いつか”ではない。日当たりのよし静かな部屋というだけ。・・・・・・・ 若い人にはわからない。・・・ この男に添い寝して、その手がオリーヴの肩に、腕に乗っていて ・・・ そう、若い人にはわからないだろうが、くたびれた年寄りになっても、引き締まった若い肉体と同じように、求めたいものはある。いつだって恋愛を無駄にしてはいけない。・・・・・・・・

 かれらのさりげない挙措や装い、背景をなす美しい自然の移ろいを描きながら、そんな人間に対する作者の目は暖かい。

 ―― オリーヴの目は閉じていた。疲れた全身に、これでいいのだという感謝が ―― また、これでいいのかという気持ちも ―― 波になって寄せていた。・・・・・・・・ よくわからない。この世界は何なのだ。まだオリーヴは世を去ろうとは思わない。 ――

 ふたりは寄り添いながら「オリーヴ・キタリッジ、ふたたび」へと晩年の旅を続ける。

 2作の連作集は本作から「ふたたび」へ、各短編順番通りに読み進むべきものだ。



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2021/05/29

粘菌と曼荼羅

 多様な植物(菌類)としての形態(多細胞性の子実体)を呈しながら生活環の中で単細胞でアメーバのように運動して微生物を捕食する時期がある。植物とも動物ともつかない原始的な生物、原生生物、「粘菌」は動物の生態と植物の生態が相互転換をくりかえす。

 その生物の原子には先祖の記憶が内蔵・蓄積され、進化とともに多様な子孫へ受け継がれてゆく。
 かくして「個体発生は系統発生をくりかえし」、生と死も相互転換をやめない。

 生きものに限らない。鉱物、植物、動物、人間社会、宇宙の運行・・・森羅万象、あらゆるものの生と死が相互に関係しあい、転換し合っている(当然ながらここで植物動物の区別はなくなり、有機物無機物の差異も男性性女性性の差異も無と化す)。

 こうして万物の根源たる粘菌は無限に分岐(進化)の道をたどり、その多様性が呈する生体は絢爛たる曼荼羅模様に喩えることができる ・・・・・・・・・・ 魅力的な発想、思想だ。

 南方熊楠は野の人でありながら、独学で生物学・博物学をおさめ(渡英中、大英博物館にも職を得ていた)、後年、昭和天皇に粘菌を主とする生物学の進講したことで知られる。
 その学問は生物学の域をはるかに超え、民俗学、人類学、生態学など広汎に及び、帰国後生涯を過ごした那智山中での研究・思索は曼荼羅世界への止揚に至った。


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       「熊楠、生命と霊性」安藤礼二 2020年河出書房刊

 本書は熊楠のくり広げた膨大な学問・思想体系を宗教的側面から考究したともいえよう。

 著者は熊楠の粘菌・曼荼羅という世界観を鈴木大拙の禅世界と対比させる。密と禅。

 この両巨人の交流は熊楠が在英、大拙が在米中に開催された万国宗教会議を端緒とするという(コロンブスの大陸発見400年を記念して1893年に開催されたシカゴ万博に合わせて宗教会議は開かれた)。
 この会議には日本から若き碩学たちが各宗派、すなわち臨済宗、真言宗、天台宗、浄土真宗から参加した。
 臨済宗の代表は大拙の恩師となり、真言宗の代表は熊楠の生涯の師となった(このあたりが近代日本哲学の起源となりそうである)。

 その後大拙は「日本的霊性」に著わしたように、禅における「現実の認識における様々な対立項(精神と物質とか主観と客観、無限と有限など)をひとつに止揚させる」作用を霊性として捉えた。

 一方熊楠は、動物と植物の生態をくりかえす「粘菌」(ミクロな存在)に曼荼羅という伝統的な宗教概念が内蔵され、曼荼羅(大宇宙・マクロな存在)の中心にある「大日」に「心」の源泉(法身=如来蔵)があると考えた。

 霊性と曼荼羅。密と禅は生命の起源を共有していると著者は述べる。

 熊楠のあとには柳田国男、折口信夫といった民俗学の系譜が連なり、大拙のあとには西田幾多郎らの哲学の系譜が連なる。

 粘菌の有する多様性が、両性具有、同性愛(男色)にも通じる、と著者は論を展開させる。
 人間が無意識にも持つLGBTへの共感を示唆しているようだ。が、そうはっきりと表現しない。もっと正面から主張してもいいと思う。

 もうひとつ読みにくいのは、繰り返しの叙述が多く(繰り返すが、と著者も述べているが)、方向性も定まらないようで(多様性を強調するためなのかどうかわからぬが)、内容があちこちへ飛躍し(とぼくには思える)、なかなかついて行くのに苦労した。ぼくのような洞察力にすぐれない読者には、難解である。

 生命の起源、宇宙の創始について何か述べられているものはないか、そんな期待がちょっとあって読んだのだが、この領域には触れられていない。


 

 

2021/05/10

ビッグバン以前の宇宙と 初めてのパスタと

 ゴールデンウイークの間も感染の勢いが止められない。
 感染症を歴史に学ぼうと書いた
 天然痘、ペスト、マラリア、スペイン風邪などなど、数々の疫病と戦ってきた。膨大な人口が失われたが、結局人類は今に至るまで生き残ってこられた。
 この厄災、1年を過ぎてもなお昏迷を続けているが、いつかは収束、終息するのだろうと、だれもが思っている。
 たしかに、人類の歴史、地球の歴史、宇宙の歴史から見たら、ほんの一瞬の現象に過ぎないのだろう。
 いや、我々が「今」直面している悲惨な状況は決して他人事のように高みから俯瞰してやり過ごせるものではない。

 いったい、これからぼくたち人類はどこへゆくのか?

「世界のすべては進化の過程にある」という。人類は「超進化」し、「超人間」となる。向かう先の見通し、救済の可能性についての道筋は語られた

 いったいどこから来たのか?
 ・・・・・・・ 宇宙は膨張を続けていることが明らかにされた ・・・・・・・ ならばと、それを逆に遡ると、膨張を起す前、ずっとずっと前は宇宙(の元というべきか?)はごく小さくて、原子よりもはるかに小さいということがわかった ・・・・・・・ それが137億年前に、1の何10乗分の1秒、つまり1億分の1億分の1億分のそのまた1億分の(とにかく限りなく短い)1億分の1秒という短時間で3ミリほどの大きさに急激に膨張して(インフレーションといわれる)、そこからあっという間に(?)、1億倍の1億倍の1億倍の(途方もない)大きさになり、 ・・・・・・ さらに大爆発のビッグバンにより現在のような宇宙になり、 ・・・・・・・ その過程で「もの」がくっつきあったり、離れたりして宇宙が生れ、それから色々と進化が起きて、137億年後の今に至っている ・・・・・・・・。

 で、だ。ビッグバンの起こる前の宇宙はなかったのか?
  ・・・・・・・ あった。ある「1点」がインフレーションという大膨張をおこして、 ・・・・・・ ・その「ある1点」はどうして生まれたんだ? ・・・・・・ 虚数という時間軸があって、ここでは時間と空間、過去・現在・未来の区別がつかない。それがある瞬間、実数の時間軸に変わり、 ・・・・・・つまり無から有が生れた ・・・・・・・・?

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 こういった思考、論議に活躍するのは専ら物理学者、数学者で、この人たちの説明を聞いてもぼくのアタマにはすんなり入ってこない(受験の時は理科系だったけど)。

 ぼくの疑問は、「ある1点」はどうして生まれたのか? 生まれたのちに始まった進化の過程は「なぜ」進み、「なぜ」、淘汰が行われたか?
 ・・・・・・・ しかし、まあ、現時点では要するに、まだ未解決な部分も多い、ということらしい。
 科学で解明がなされるまではすべては神の御業だった。それが科学の発達で、神でしかなしえないといわれていた諸々の領域、聖域がどんどん狭められてきた。天動説から地動説への転換、リンゴが地上に落ちる理由の発見、さらに相対性理論だの不確定性原理だの、量子宇宙論だの、神の介在しない宇宙のありよう、その追求は今なお行われ続けているということだ。

 しかし、その極限まで突き詰めたところのさらにその先は?  ・・・・・・ いや、これは我々の思考の及ぶところのものではないということなのだろう、今更だけれど。2500年前に孔子様は仰った。未だ生を知らず、焉んぞ死を知る。

 こんなことばかり考えながらゴールデンウイークを過ごしたわけではない。

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 オムライスに再度挑戦、・・・かなり完成の域に近づいた。
 前回の自己採点は60点と言った。今回は80点。味はかなりイケてる。ふわっと感が出るとさらに良し。それとあとは手際良さが改善されれば満点だ。

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 第2弾は初めてのパスタ。
 ベーコンと野菜入り、塩・ニンニク風味。自己採点60点。
 パスタの茹で具合は良かったが、先に炒めた野菜類とのからめ具合が行き過ぎて、焼きそば風になってしまった、舌触りが悪く減点大。
 次回、リベンジ。・・・しかし、火を恐れなくなった、火をうまく利用できるようになった。・・・人類の進化と共通しますな。

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 シンガポールにいる孫①②はふたりとも5月が誕生月。リモートでお祝いした。

 現状ではまだかの地を訪問できない。それどころか、日本の感染状況が悪化したため、ランクを下げられ、シンガポールへの入国はできなくなってしまった。
 アメリカ、イギリスはワクチンの効果が如実に現れている。
 昨年1月以来の諸々の政策の誤り、やはり我が国におけるコロナ禍は人災だと思わざるを得ない。

「宇宙になぜ我々が存在するのか」村山 斉 著(2013年講談社刊)
「ビッグバン以前の宇宙」和田 純夫 著 (1991年岩波書店刊)






2021/05/05

「サピエンスの未来」立花 隆 : 世界のすべては進化の過程にある

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 コロナ禍、五輪開催云々・・・俗世のやる瀨ない愚かしさの日々も、人間の、人類の、地球の、宇宙の、長大な時間の前にはほぼ無にも等しい。そんな風に考えれば、波立つ心中、少しは鎮められるか、どうか。

 人間はどこから来て何処へ行くのか。・・・・・・・・・・「哲学と宗教」の観点から人間の由来から現在までが総合的に解釈され、また科学的な見地から人類、宇宙の歴史と未来が「宇宙誌」として語られた。
 これらすべてをひっくるめて、人間というものを「進化の過程」で見直すのはどうだろう。

 この作業に多大な功績を残したのは、19世紀後半から20世紀中頃に生きた古生物学者でありイエズス会司祭であったフランス人、テイヤール・ド・シャルダン。
「サピエンスの未来」の作者は、かれの主著をもとにその思想を読み解く。

 シャルダンは、「進化史の中での人間を位置づけ未来を考察すると、この宇宙全体は進化の過程にある」と結論した(キリスト教徒にとって人間の誕生を科学的に説明することは危険だ。人間の誕生は神の御業だから。事実、彼の主張はその死後数十年経ってようやく世間の日の目を見た)。

 生物の進化を考えるとき、時間を遡ると(ヒトから猿人、爬虫類、両生類、魚類・・・)生命の誕生に留まらず、――物質も進化してそこから生命が生れたわけだから――地球の誕生、宇宙の誕生、さらにビッグバンにまで行きつく(生物の誕生、無機物の誕生、無機質を構成する原子、粒子・・・と無限の小に向かって)。

 (ただ、「物質も進化してそこから生命が生れた」といったところで、無機質が進化して色んな化学反応が次々に起こり、その臨界点から生命の誕生に向かってなんらかの「ジャンプ」が起こったと考えざるを得ない。)

 そして行く末、未来はどうなのか。
 宇宙がどんどん膨張し、太陽の死は物理学的には約束されたものであり、地球にも死は訪れる(その過程で当然、生物は死滅する)、らしい。その先も宇宙は膨張を続けるとすればそれは無限の大へ向かっている。
 宇宙の過去・未来、ふたつの無限の間に存在する人間はどっちを向いても絶望するしかない。

 しかし、ふたつの無限に加えて、もうひとつの無限軸「無限の複雑さ」を持つ系を考えてみたらどうだろう。時間軸(過去~未来)、質量軸(電子~生物~地球~宇宙)にまたがる複雑軸。

 物質が「複雑性」のある臨界点を突破したとき生命が誕生し、「物質圏」の上に「生命圏」が拡がった。
 生命が複雑性を増し、ある臨界点を突破したときヒトが誕生し、「精神圏」(思惟能力を持った人間集団の意識全体、人類全体の共同思考)が生れ、「精神圏」は「生命圏」の上に拡がっている。
 この過程はひと続きだから、物質と精神(肉体と魂)という二元論は誤まり、ということになる。

 人類はホモサピエンスの段階に到達することによって有機体としての最上空に達し、あとはその髙さを維持して飛ぶだけ・・・ではない、現在が進化の終点ではない。人間そのものが今なお形成されつつある、進化の途上にあるのだ。無限の中にある人間を思えばそれは明らかなこと。

 そしてこれから、 ・・・・・・ 共同体の内部にある求心力が増強し、新たな現象、「超進化」が飛び出してくる。人類は超進化により「超人間」になろうとしている(それはニーチェのいう超人とは異なる)。
 個としての人間存在をはなれたもので、個体が進化しなくとも、社会という新しい存在様式を通して人類の進化は可能なのだ。

 シャルダンはさらに語る。

 宇宙は至高の統一体に向かって無限に合一してゆく方向にある。その中に在って人間も、高度に一体化しながら、至高の統一体との合一をめざす方向に進んでいる。

 精神圏にあって人間社会は高次の結合体になってゆく。共通の中心に向かう求心的な運動を共有する人間同士は、ある意味で、神を共有するのと同じこと(人類の集合的無意識、ということか)。

 全宇宙、全世界が進化しつつあるのだから、神の側も進化し続けなければならない。
 進化は神の創造のひとつの形なのだ。

 パウロの言葉を借りれば、充溢(神と世界からなる有機的は複合体)においては神は単独に留まるのではなく、神はその全体が一切の中にある。

 しかしどうなの? 現実はそう簡単ではないぞ。憎悪と混乱、分断に溢れているじゃないか。
 いや、にもかかわらず、新しい型の人間が世界のあちこちに現れているのだ。

 すでにシャルダンの生きた18世紀か19世紀ころから、「ホモ・プログレッシヴス」として出現している(と、ふたつの世界大戦を経験したシャルダンは述べる)。
 人類社会に、知的・社会的大動揺が起こり、それに加速されるかたちで人類(精神圏)の分裂が進んでいるけれども、「ホモ・プログレッシヴス」は世界のあちこち、あなたやぼくの精神の一部にも存在しているのかもしれない。

 「伝説の東大講義」のサブタイトルがあるように、もともと1996年の夏に行われた講義にその後、手が加えられ「新潮」に57回にわたって連載された、その一部が本書。20年以上経った2021年2月に刊行されたわけだが、解説者の序言にあるように、宇宙の長大な時の流れに比べれば大した遅れではない。

2021/04/12

なぜ山に登るのか? 「ぶらっとヒマラヤ」

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        「ぶらっとヒマラヤ」 藤原章生 (毎日出版 2021年3月刊)

 中学生のときからハマっている山登り、58歳の著者は還暦を前に標高8000メートルのヒマラヤに挑む。
 なぜ山に登るのか?
 落石や雪崩、滑落、高地では低酸素の危険も加わる。にもかかわらず、なぜ?
 これまでも山登りで幾度となく危うい経験を重ねているのに性懲りもなく、なぜ?
 結婚し、家庭があるのに、なぜ?
 27歳でエンジニアから新聞記者へ転職した著者は海外経験も豊富で、各赴任先で登山家を含む多くの知己を得ており、この疑問に対してその人脈からも様々な示唆を汲み上げようとする。

 東京での高地トレーニングののち、現地入りし、ベースキャンプから時間をかけて上り下りをくり返し、低酸素への馴化を図りながら徐々に露営地の高度を上げてゆく。
 低酸素状態に身を置くことで身体のみならず脳にも様々な変化が起こる。

 極限状況での不思議な多幸感。あるいは逆に自己嫌悪。
 普段は抑制できていた感情コントロールのベールが酸欠状態では否応なしに剥ぎ取られ、己の本性が現れた結果なのか。過去をあれこれと事細かに思い出しては悔いて自己嫌悪に陥り、一方で目覚めると同時にひどい多幸感に襲われるという体験。感情のコントロールが利きにくくなるらしい。
   ・・・・・・・・・・ アスリートが体験する「ゾーンに入る」とは似て非なる、いや全く異なるものか。

 恐怖とはそもそも何者か。著者は先人の言葉を借りて解釈する。
 直面する危機的状況に対して「嫌悪」の情が起こる。この「嫌悪」の情によって危機的状況が「害」をもたらす、と感じるとき生ずるのが「恐怖」であり、「嫌悪」の情がもたらすであろう「害」を払いのけられるという希望が湧くとき、払いのける抵抗力は「勇気」となる。当然ながら両者は表裏をなす。
   ・・・・・・・・・・  分かりづらいけど、分かる。

 高地登山が孕む危険は当然、恐怖へ繋がるはず。
 今まで体験した恐怖をなんとか凌いでこられたのは何か?
 海馬に蓄えられた危機体験が扁桃体で引き起こされる恐怖の感覚を調節するらしい。経験によってこの調節システムが「いつでも作動できる」ものとして自分の奥に潜んでいるのではないか。
   ・・・・・・・・・・ なるほど、そうかもしれない。

 人は死に瀕したりパニックに襲われたりしたとき、その短時間であらゆることを考え、「生き残る」というただひとつの目標の下、あらゆる可能性を疑似体験するのではないか。
 その体験により、自分の時間がどれほど貴重で、価値あるものかがわかる。
 山を無事に下り、死なずに済んでよかったと単純に思う気持ち、その気持ちをすがすがしく健康的に抱えながら、また改めて山に行く。倒錯的で矛盾に満ちた行為かもしれないが無意味ではない。平生は忘れている「ありのままの心」を、極限状況の中で実感できる。極限の状況から抜け出すことは「創造的行為」。そのために訓練が必要、そこにこそ山に登る意味がある。
   ・・・・・・・・・・ この境地は是認しがたい。自ら危険に身を晒すことで生きる意味を確認する、などと。

 ヒマラヤから帰国すると人の気持ちが素直に自分の中に入り込んでくるようになったと。
 この解釈として著者は述べる。・・・高所では脳細胞の多くが死滅するが、単なる損傷ではなく、脳の刷新、再起動と捉えられないだろうか。眠りで海馬の記憶が整理されるように、低酸素による脳の刷新で、好奇心をつかさどる部位が生まれ変わり、子供の頃のように素直にひとの気持ちが自分の中に入り込んでくるのではないか。
   ・・・・・・・・・・ 面白い解釈だと思う。

 若い時と定年目前では人生における経験量は当然ながらまるで違う。ということは人情がらみの記憶も桁違いに多いから、同じ情景・状況に接してもそれに関連づけられて反応する程度は若いときとは全く異なる。
   ・・・・・・・・・・ まったく同感。

 感涙ポイントにヒットしやすい。映画を見ても若いときは何とも思わなかった場面で突然涙が出たりする。私たちは大人になっても子どもの頃と同じように日々感動している。ただ大人だからそれを表に出さないように抑えているに過ぎない。
   ・・・・・・・・・・ いや、これは違う。涙腺刺激に対する反応閾値が加齢とともに下がっている、いい悪いの判断は別にして、一種老化現象だと思う。

 同様のことが低酸素状態という極限状況でも起こるのではないか。
   ・・・・・・・・・・ なるほど。

 なぜ山に登るのか。もともと人間は太古から山に登っている。仙人思想や山岳宗教があるけれど、それらが出現するずっと前から人はわけもなく山に登っていたはず。もともと人間の中にプログラミングされたものがあるのではないか。
   ・・・・・・・・・・ そう思う。たぶんそうなのだ、人はなぜ走るのか、に共通するものでもあるか。
    
 人が生れて消えるまで、それは生命という一本の線にたとえられる。
 山登りとは、その一本の生命の中で、その線のしなりやゆがみ、はかなさを試してみる加圧実験のような、疑似体験のような試みではないのか。
 もしかしたら太い命の線のなかにいくつも「疑似生命線」のようなものを隠し持っていて、それをあるときふと試さずにはいられなくなるのではないだろうか。
 登山でなくてもよい。一見無意味な行為を人間が続けていくのは、それを試さずにいられないから。
   ・・・・・・・・・・ そうか、そういう思いでの山登りなら分かる気はする。

 ・・・・・・・・ 死の恐怖をいかにして克服するか。そのための「自己調節能力」をどれほど磨いてきたろうか。
 目まぐるしく日々は過ぎてゆく。ふと気づいてもうこの年になったのか(と振り返り)、あと少しであの年に至るんだ(と「老後」の日々を想像して)、とため息をつく、・・・これは違う。
 「今」という時をきちんと生きる。月並みなことだけれど、月並みなことが営々と、だらだらと続いているのは、危機的状況、極限状態を日常の日々体験することがあまりないから、なのか。
 唯一(今のところ)ぼくの心根を脅かすのは、前触れもなく気紛れにやってくる不整脈。心臓に鎮座するココロが搖らぐ

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2021/04/06

オリーヴ・キタリッジ、ふたたび

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「オリーヴ・キタリッジ、ふたたび」 エリザベス・ストラウト(小川高義 訳)2020年12月刊

 中学校の元教師だったあなた、オリーヴ・キタリッジは老境に足を踏み入れ、過去を振り返りながら老いに向き合います。過去を振り返るといっても単なる過ぎた日々の回想ではなく、「今」に繋がるものばかり。
 昔の教え子やその友人・家族、あるいは同じ町に住む人々が、直接もしくは間接的に、主人公であるあなたと様々なかたちでの交流を展開します。
 13篇の連作物語の中であなたはむろん多くは主役を演じるわけですが、ときに脇役、ないしはチョイ役も引き受け、主人公の座をかれらに譲ります。
 たくさんの人物が登場するから、物語の先々でこの名前は誰だったっけと読み返す必要も読者にとってはあるかもしれません。
 どのキャストもそれぞれに込み入った事情を抱え(平凡な生活を送っているように見えても)、それぞれの個性でもって日々の出来事に対峙する(小説であるからかなり非現実的な場面設定も多々あり)、そしてどの人物もみな、これまでの己れの人生に対する疑問、後悔を抱いている、切ないです。

 この短編集の最初に出てくるあなたは78歳。
 ちょっと頑固でお節介で、でも知的でユーモアを失っていません(教え子たちの評価は色々で、あなたが好きなのもいたし、あまり好きじゃなかったってのもいました)。
 下腹が出て来たのを気にしてジャケットはお尻が隱れる丈のものを着用してるんですね。
 今のところ自分で車を運転して買い物やドライブに出かけることはできる。

 以前から顔見知りだったジャックと(互いに連れ合いと死別していた)結婚し、自宅を売却し、彼の家に引っ越します(家族は当然猛反対ですね)。彼はひとつ年上。女房とは必ずしもうまくやってきたわけではなかった(あとで分かったことながら、どうやらダブル不倫があったようで)が、忘れることはできない。そして今は尿漏れ用のパンツを使用中。

 オリーヴに縁ある人々が関わる問題の数々 ・・・・・・・
 悪性疾患の治療中のかつての教え子(まだ若い)は死の恐怖と戦っています。
 「誰だって死ぬのはこわい」「先生もこわいですか?」「もちろん、死ぬなんて、死ぬほどこわいよ」「うまく折り合える人の話も聞きますが」「そういう人もいるんだろうね」「いくつになっても、死ぬってこわいものですか?」「もう死んじゃってたらいいなんて思って暮らした時期もあるんだけど、やっぱり死ぬのはこわいよ。この年になってもそう。――あのさ、もしかしての話だけどね、ほんとに死ぬようなことになったとしても、みんな、すぐあとから追っかけてる。そんなものよ・・・」
 (・・・みんな行先は同じなのだ。もし行くのなら、そうなる)
 
 そして人種差別(白人vs黒人ではない)、性暴力、自殺、同性愛、 ・・・・・・・ ジャックがハーバード大学で(彼は教授でしたね)、ハニートラップで示談金を払わされ辞職に追い込まれた女(学部長と関係が出来て大学で出世しました)との遭遇。 ・・・・・・・・
 さらに鬱、認知症家族の殺害事件などなど、現代社会の問題が満載でありながら、あなたも他の登場人物も、切ないくらいに健気に立ちまわります。表面上は無事息災、何事もないかのように振舞っている人々もそれぞれに深刻な事情を抱え、嫌な奴に思えた人も実は好ましい人間だった ・・・・・・

 やがてあなたはジャックと死別し(彼はあなたに寄り添って寝ている最中に急死しました)、独居生活に入ったのですが、心筋梗塞で辛くも一命をとりとめ(ICUで人工呼吸管理まで受けるのですがなんと担当医に恋心を抱く! 認知症ではないのですね)、退院後は自宅で複数の介護スタッフの手を借りながらリハビリ生活を送ります(このスタッフもそれぞれに人種問題や貧困、それに政治的偏見といった問題を抱えていますね。たぶんあなたの嫌いなトランプまで登場します)。
 リハビリは奏功し、あなたはまた運転ができるまでになるのですが、雨の日にベランダで転倒し動けなくなり、死をも覚悟した経験を機に、ジャックの広い家での独居生活、孤独感に苛まれるようになり、長男の手配で(この頃には彼もかなり心を開いてくれています)老人ホームに入居しました。

 今あなたは86歳。時々便失禁のおそれがあり、オムツの世話になっています。
 当初はホームの老人たちとの交際に難儀を生じたけれど、打ち解け合う仲間に惠まれ、互いを励まし合うようにして生きています。
 まだ独歩は可能、食事もひとりでできる。毎週施設のマイクロバスでスーパーへ買い物にも出掛けられる。認知症も明らかではないようだ。
 でも、いつまでもこのままではいられないことは身に染みて分かっているんですね。

 物語全編を通して、オリーヴや他の人物たちが日常目にする小さな町のごく当たり前の自然の移り変わり(樹々や花、空、日の光・・・)が美しく鮮やかに描かれ、時とともに過ぎてゆく人間の儚さ、哀しみ、そして何よりも優しさを映すバックグラウンド音楽の役割を果たしています。
 明日は我が身、かもしれません。身につまされる物語です。

 オリーヴ・キタリッジさん、あなたと同世代だったとしたら、ぼくはある年月(3年? 5年? いや、もう少し長く?)だったらともに暮らしてみたいなと思います。でも一生ってなると、ついて行けない気がします。
 とはいえあなたを産んだエリザベス・ストラウトさんにはずっと恋心を抱いてゆけそうに思います。ぼくより7つ年下の彼女がぼくのことをどう思ってくれるか分からないのですが。


2021/04/01

メメント・モリ

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 人間のいのちは永遠ではない、有限だ。あたり前、確実なことだけれども、なんとか無限性に繋がるものがないものかと、哲学・宗教にその回答を求める。そして、そもそも生命とは何だろうと考えると宇宙の誕生に視点が向く。それだけ死を恐れる気持ちがあるからに他ならない。にもかかわらず、日常の中では目を逸らせてしまうことが多い。
 目を逸らすな、メメント・モリ。

 されば死とは何なのか、と語り合うふたり、1946年生れの評論家とひと回り年下の文学者。ともに社会・文化・哲学など広い分野を研究・思索の対象とする。

  「死と向き合う言葉、先賢たちの死生観に学ぶ」 呉 智英・加藤博子 2021年3月刊

 サブタイトルにあるように古今東西の先人たちの言葉を引用・解釈しながらの対談は、重々しくない。悲観も楽観も強調されない(少なくとも対談に記された限り、おふたりとも死を恐れてはいないように見受ける。むろん人それぞれに経験てものがある。色々あったには違いないのだろうけど)。

 さて、死後をどうとらえるのか。

 キリスト教では神による救済、無限の存在を説く。
 しかし絶対神エホバが全能であるならばなぜ、罪を犯すような不完全な人間を創造し、楽園から追放したのか。
 悪が闊歩し、清貧に生きる人々を圧迫する。厄災にせよ宿病にせよ、それを免れる人と不幸な当たりくじが与えられるような不公平はなぜ行われるのか。
 エホバは唯一神ゆえ、これ以外の神は認めないというが、そういうことをいう以上、他の神を意識している、これは実は多神教ではないのか。そもそもイスラム教もキリスト教も起源は同じユダヤ教なのだ。

 釈迦は無限のものはない、一切は有限であり、諸行無常を真理と説いた。
 しかしこの教説もキリスト教同様、時代とともに大きく変容を遂げ、一切空という教えは、浄土系においては死後の世界を想定することで無限との繋がりを主張するに至る。
 南無阿弥陀仏と唱え、西方浄土への往生を念じるわけだが、地動説に従えば日本から見た西方とは裏側のアメリカ大陸では東方になるから、現代では説得力に欠ける。どのように浄土を信じるのか。

 佛教でも禅宗や密教系では修行による「自力での悟り」を目指すが、見方次第ではその修行の厳しさを通して得られる「法悦」とは一種精神病理にも繋がるかもしれない。ある種の薬物で引き起こされる現象にも通じはしないか。同じような「忘我の境」は浄土系の修養においても認められるのではないか。

 有限であることは間違いない自己をいったいどのように受け入れたらいいのか、宗教的なものに仮託できる人は幸福である。そうでないものは悩む。

 孔子らの儒教では「未だ生を知らず、焉んぞ死を知る」、というように形而上学的アプローチを拒否する。

 ならば哲学的アプローチはどうか。

 カミュについて考える。
「異邦人」の主人公ムルソーは、価値観を共有できない世間との摩擦の中でも自分自身を手放さない強さを不条理として受け止めた。「ペスト」にしても「シーシュポスの神話」にしても不条理の絶望の淵からこれに立ち向かう姿勢が描かれている。
 この態度はニーチェにも繋がるかもしれない。

 ニーチェは「神は死んだ」と宣言し、生れ死んで神の国へ行くという直線的、千年王国的な時間性を否定し、永劫回帰という円環構造の時間を示した。
 かれは唯一神教としての神を否定したが、むしろ多神教的、汎神論的思考を持っていたようにも思える。
「超人たれ」というのは要するに、死生観については自分で考えろということ、イデオロギーや宗教によって思考停止するのではない、考え続けよという意味なのだと解すべきではないか。

 自己が有限であるならば、生命を未来へ継いでゆく方法はないものか。
 子孫ができれば確かに遺伝子はそのまま受け継がれてゆく。子どもがない人の場合はどうなのか。
 血筋(DNA)以外にも生命や意志・精神が次世代へ襷リレーされるものとして、柳田国男は日本の「家制度」に着目した。
 「家」を継ぐことで(直系の血筋に限らず養子制度も含めて)、次世代への脈絡が保たれると主張した。
 この社会習慣がわりに広く受け入れられているということは、ユングが述べた無意識の共通意識にも繋がるのではないか。
 
 されば、民間信仰として根強い霊魂について。
 人間は死ぬと一時期冥界と現世の境界領域を漂い(たとえば山に49日とか)、幽冥界からまた戻ってくる。盆とかお彼岸など。現代でもなかなか捨てがたい風習である。捨てがたいということは、どこかで(無意識にも)信じているのではあるまいか。

 そして自然崇拝。折口信夫の「死者の書」は太陽信仰が背景にあるようだ。
 お天道様に手を合わせる、深山の古木、巨岩に頭を垂れたくなる心情に根拠の説明は不要だろう。

 そもそもこの人生に生きる価値があるのか。
 様々な状況で自死、安楽死の議論が出来する。昔からある。例えば姥捨て伝説や即身仏。
 (しかし摂取障害による自死は別。カウンセリングが必要)。

 自死といっても、捨身とか自己犠牲とかは意味を異にする。
 釈迦の前世譚にある捨身飼虎の故事(飢えた虎に我が身を与えた)、宮沢賢治の世界(「銀河鉄道の夜」などの寓話や「雨ニモ負ケズ」などの詩)にも見られるように。

 むろん結論など出るはずもない対話ではある。だが、多くの示唆に富んでいる。
 これをヒントに、ぼくはぼくなりに思考を重ねてゆかねばならない。
 どこまで「覚悟」ができるものなのか、この年に及んでも迷走は続く。

 ただ、互いに知ったもの同士、「肩肘を張らない」対談だからなのか、男性が自分を「俺は」という人称で語るのには違和感を覚えた。文字として残るものなのだから「私は」とか「自分は」と記載してほしかった。身内同士の対話ではない、公の出版物ゆえ。
 どうもこういう公私の境界を不明瞭にする姿勢は近年、ラジオやテレビにも当たり前のような現象になっている。特に若い出演者。視聴者への親近感を意識しているのかどうか、裏側(内幕)を見せる。芸の至らなさを安直な方法で補っているように映るのだが、見る方もそれに引き込まれているのか、たぶんそうなのだろう。でも「ぼくは」こういう風潮は好きではない。年寄りの頑迷固陋な繰りごとと言わば言え、紛れもない年寄りなのだから。

 それにもう一つ。同性愛について何度か話題にのぼったとき、「モ~ホ」ということばをくり返している。LGBT、多様性を認めようとする現在の潮流に馴染まない表現で、差別的で嫌な感じがした。
 これらいずれも本書の内容そのものをいささかでも棄損するものではないのだけれど、ちょっと残念。

 

 

2021/03/17

「宇宙誌」松井孝典 ・・・ 再読 

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 新型コロナウイルスの勢いがなかなか止められない。国外ではむしろ増悪のくりかえしもみられる。巧妙に変異しながら次世代へコピーを続けている。実に厄介だ。
 100年前のスペイン風邪にしろSARSにしろ終息した。いずれこの悪疫も終焉を迎えるのだろうと思うのだけれど、地球人すべてが心身ともに苦境を強いられているのはグローバル化に尽きるということか。
 ウイルスそのものが国境、海を簡単に飛び越えて拡大するばかりでなく、人の声・情報もいとも容易に拡散する。それも虚実ないまぜだから、不安と疑惑が人々を脅し、加えてメデイアが時に正義を装いながら煽動する結果、世界を様々な形で分断している。
 科学だけで対応できない、経済とか政治とか、損得勘定が倫理を凌駕したりする。オリンピック開催云々がその象徴ではないか。

 あと何年かすればぼくたちが経験しつつあるコロナ禍社会が、いかなる評価・審判を受けるのか、今の時点である程度予測はできても明らかにするのは歴史(そう先のことではなかろうが)に違いない。
 人類の歴史からすれば、地球の歴史からすれば、ほんのわずかな「瞬間」の出来事ではないのか ・・・・・・

哲学と宗教全史」では「人間とは何か」について哲学と宗教の関連が時間軸の上で俯瞰して述べられているが、本書では科学的な見地から「我々はどこから来たのか、どこへ行くのか」、地球のみならず宇宙の歴史と未来が語られる。
「宇宙史」でなく「宇宙誌」と命名されたのは単なる自然科学の歴史書ではなく、他ならぬ人類(自然の一部としての)の営み、その存在意義を探らんとする意図が本書の伏流をなしているからではないかと推察する。

 1993年の刊行で、ぼくはその翌年に読んだ。20年以上経った今再読してみても、そこから与えられる多くの示唆に全く違和感を覚えない、かつて受けた感慨がそのままに保存されているように感じる(当時の読書日誌を読み返しても)、要するに地球の長大な歴史に関して科学的知見に大きな発見・変化はこの間なかった、ということなのだろう。
 これはむろん、本書の価値をいささかでも貶めるものではない。今なお、主張するところ鮮烈な輝きを放っている。

 人類学者今西錦司によれば、人類はすでに200万年前にはりっぱに人類として生活しており、祖先が地上に現れ出したのは1400万年前であったという。
 著者は問う。
「1400万年前から200万年前まで人類はいったい何をしていたのだろう、・・・・・・ そして200万年前から人類の文明の痕跡をさかのぼれる1万年前まで人類はいったい何をしていたのだろう ・・・・・・」
 続けて語る。
「1万年前、人類は農耕を知った。 ・・・・・・・ ここからバビロニア最古のシュメール文明、エジプト古王朝、あるいは中国最古の伝説的『夏』王朝への道のりはほとんど一跨ぎの距離にある ・・・・・・ 」
 そして断じる。
「人類が農耕を憶えた時点から、環境問題を自らの宿命とした。 ・・・・・・・ 地球との共生の道を放棄し、地球の資源を食い潰すことによって ――結果として環境は汚染される―― 自らの繁栄を図るという重大な選択をした ・・・・・ 」
 さらに考察を重ねる。
「200億年という広大無辺の時の流れの中で、宇宙は地球を生み出す必然性を持っており、地球は人類を生み出す必然性を持っていたのではないか ・・・・・・ 産業革命が始まった頃、われわれは宇宙とは何か、地球とは何か、生命とは何かということについて、科学的は意味でほとんど何も理解していなかった ・・・・・ それから200年余りを経て、今、われわれはそれらの命題について完全とはいえないまでも、ほぼ納得しうる答を手に入れようとしている。 ・・・・・・ 人類が人類自身の存在理由を明らかにしつつある ・・・・・・・ (だが  ・・・・ とこの先、疑義を自ら唱える)

 確かにこの200年ほどの間に科学は様々な分野で進歩した。
 にもかかわらず、―― とぼくは初読から自分の生きてきた時代を振り返り、―― あれ以降、地球上では天災、厄災、戦災が止むことなく起こってきた。自然の一部である人類にとっての進歩っていったい何なのだろう?
 地下鉄サリン事件、スマトラ沖地震、中国四川省地震、阪神淡路大震災、北朝鮮のミサイル発射、アメリカ同時多発テロ、狂牛病、イラク戦争、SARS流行、新潟中越地震、新型インフルエンザ流行、東日本大震災、イスラム国による紛争、パリ多発テロ、熊本地震、 ・・・・・・ この間も地震、豪雨など自然災害が毎年のように日本のみならず世界各地を襲っている。
 そして、コロナ禍。

 ウイルスたちの跳梁跋扈を許したのが人類の繁栄(人口増加)に対応すべく行われたかれらの棲息地域(未開の森)の簒奪によるものならば、この星に生きるもの同士が争っている場合ではない。
 著者は叫ぶ。「46億年の地球史に比べれば人類400万年の歴史は一瞬のまばたきにも等しい。我々人類だけが母なる星・地球を傷つけていいものか!」
 友よ! 争っているときではないぞ! ・・・・・・・・ しかし、虚しい。
 
 最終章で著者は科学者たちが示した「神」への関わり方の事例を揚げ、「我々とは何かという人間存在の本質を問うのであれば、科学は否応なく哲学の領域に足を踏み入れていかざるを得なくなる」と述べて擱筆する。

「哲学と宗教」にもどる。求めるものに解は明らかではない、簡単には与えられない。
 窓の外、ビルの燈りが寂しい。

 

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2021/03/10

人間とは何か? 「哲学と宗教全史」出口治明

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 人間とは何か、どこから来て何処へ行くのか? ・・・・・・・・  解答を得るべく古今東西、膨大な数の人々によって議論がなされてきた。膨大な、というのは人類史上の大部分を占める無数といってもよいであろう無名の人々の「思い」を念頭においてのことである。
 誰しもが抱く問いであり、容易に納得のゆく答は得られない。
 我々の先人たちの中で特別な才能を持つ人たちが、数多の記録を残してくれている。
 かれらは考えた。分析した。過去の事跡を辿った。道理を訪ね、議論を重ね、歴史が学ばれ、哲学が生れ、信仰が生れ、・・・・・・・ どのような順序でこれらの道程が踏まれたのか、まったく人さまざまだ。そして我々は個々に読書を通してアプローチを試みる。それぞれの人生の、いろいろなタイミング、機縁で、その人なりの切り口で。

 我が身を顧みるに、10代の頃から人生の黄昏どきである今に至るまで、歴史(日本史・世界史)、哲学(ソクラテス・アリストテレス・老子・孔子・ヘーゲル・ニーチェ・サルトル)、宗教(古代宗教・ユダヤ教・キリスト教・イスラム教・ヒンズー教・仏教)と、羅列すれば壮大ではあるが、どれもその時々の「思い」、観念・感情・感覚に駆られての、切れ切れの「知識」の寄せ集めに(結果としては)過ぎなかった。
 無論、理解し難いことも多々あったし、年を経るにつれ読み取る内容にも変化を生じるのは多くの読書する人々と同じである。
 そうして記憶の棚から落下し忘却のかなたへ過ぎて逝ったもののいかに数多なるかを痛切に思い知るのは、何年も、あるいは何十年も経って同じ本を読み返しては、「新発見」に遭遇すること実に少なからざる事情による。

 歴史学者は歴史を解説する。宗教人は宗教を説く。哲学者は哲学を語る。各々の言説に接して自分はたぶんそのたびに首肯したのだと思う。その理解がどれほど身に着いたのか、どれほどの時間大脳に保存されていたのか、省察するに全く覚束ない限りである。

 本書の著者はかかる意味の「専門家」ではない。実業家・教育者とふたつの顔を持ち、歴史・哲学・宗教・科学・芸術と、世の中のあらゆるジャンルに散りばめられている真相・真理を統合的に追及する「総合者」とも呼ぶべき人物かもしれない。
 本書の特徴は、西洋・東洋・中近東という文化・文明の発祥した地域に起きた多数の込み入って関係しあう事象・事例を時間軸の中で対比させることだ。

 世界最古の宗教ゾロアスター教の流れの中でユダヤ教が生れ、ここからキリスト教・イスラム教に連なり(のち中国に及ぶ)、古代ギリシャの哲学は古代インド哲学と邂逅し、この間中国では儒家・道家の系譜が主流をなし(後の朱子学はデカルトにも通じる)、インドのバラモン教とのせめぎ合いで仏教・ヒンズー教が生れ(孔子とブッダは同時代人。ソクラテス・プラトンも近い時代)、幾多の戦争はこれらの地域間の文化交流・混淆を生み出す。
 インドに生まれた仏教はブッダの教説と全く形を変えて大乗仏教・密教として中国・日本へ伝わり、発祥地インドではヒンズー教に取って替わられた。

 ペルシャ戦争、アレキサンダー大王の東方遠征、フランス革命とナポレオン、アメリカ独立戦争。そして途中でからむのがガリレオの地動説、ニュートンの万有引力発見、ダーウィンの進化論、ペスト禍、・・・ 哲学と宗教には、科学、政治も当然ながら深く関与する。

 デカルトは「我思う、ゆえに我あり」と言いつつ神の存在を主張し、ヘーゲルの弁証法・絶対精神(絶対真理)を批判したショーペンハウエルは厭世主義から仏教の輪廻転生に傾斜し、キルケゴールは実存主義を論じたが最終的には神に行き着く「宗教的実存」を唱え、同じ実存主義ながらニーチェは神の存在を否定し、歴史の永劫回帰(仏教の輪廻転生と同じ)という運命を受け入れる「超人」「力への意志」が世の中を動かすと主張した。
 マルクスの唯物史観、フロイトの「無意識の発見」から20世紀へ。

 こういう展開、俯瞰的な捉え方による史観は、ダイナミックで目の眩む気さえする。「全史」と銘打ったのも頷ける。

 人間とは何か、今生きているこの命とは何なのか?
 「全史」の中枢で底流をなすのは、神と哲学との様々なかたちでの対峙だ。

 ―― 我々人間が生まれたのは神の御業なのか。
 ―― 否、論理を(科学的に)遡り生命の根源を哲学で解釈すべきだ。ルネサンスで人間の「再生」が叫ばれて「哲学は神学の端女(はしため)」という立場は一転した。
 ―― この命の原初は哲学では説明できない。
 ―― 否、人間の理解を超えたものを議論すべきではない。
 ―― それは明かすものではない。信ずべきもの、信仰だ。

 これからも自分の中で何度も繰り返される自問に対して、本書の俯瞰的叙述が自答の糸口になるように思う。参考文献が各セクションごろに設けられており、理解を深めるのに有用そうだ。

 

 

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