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2021年8月の記事

2021/08/29

白昼夢

 猛々しい暑さと熟眠の得られぬ夜が続いたせいだろう、朝、覚醒したのちも疲労感が身体中にまつわりついている。
 ヨッコラショとソファーに四肢を投げ出し、その疲労の放縦にグダグダと身をゆだねる。
 目を閉じて、全身が、脳みそを含めて、疲労の湯舟に浸り、疲労と馴れ合ってゆくのを、瞼の裏の闇の中、ちょっと離れた上の方から眺める。
 ああ、あれがおれに憑りついている疲労だ。

 眼を開き、膝の上に広げた稲垣足穂の字面をたどりだすとすぐに眠気に誘われ、この身は、意識は、眠りの海に沈み、間もなく(たぶん5分か10分ののち)、覚醒状態にもどる。
 ふたたび足穂に目を落とすとすぐに眠気が勝ち、・・・・・・ そうして、眠りの海の浅瀬を沈んだり、浮かんだりとくりかえすたびに、熟眠不足の感覚は少しずつ、少しずつ解消されてゆくのがわかる。

 何度目か海面に顔を出したとき、ずいぶんスッキリした気分だと実感はしたものの、疲労感はかえって重くのしかかっている。やけに重たい。

 おれは老いたのだろうか? ぼんやり思う。
 ああ、紛れもなく老いた。
 いったい、「あれから」、どれだけ時間が経過したものやら。10年とか50年とかという単位ではない気がする。100年とか、1000年とか ・・・・・・ バカな。

 5分や10分の睡眠のくり返しにおいてすら、レムとノンレムのリズムは交互に出没し、とっくの昔に置き去りにしたはずの欲望が漁火のようにチラチラと揺らめいては遠ざかる。 
 コマ切れの、断続的な、しかし脈絡を保って現れる夢見。

 おれはじぶんが分かっている。今だって、欲望はこの老いの身に潜んでいるのだ。
 まくれた着物の裾から見えた女の足に気を取られて墜落した久米の仙人が齢幾つであったのか知らぬが、おれにも同じ現象がいつ起きるか、知れたものではない。
 そうだった。果たせなかったあの女への欲情! ・・・・・・・ あしたこそ ・・・・・ 何? あしただって?

 ・・・・・・ はっはっはっ ・・・・・・ だれだ、嘲笑するのは? ・・・・・・ 天の哄笑だよ ・・・・・・

 ・・・・・・ 闇、そして光 ・・・・・・ アダムとイブ ・・・・・・ イザナギとイザナミ ・・・・・・・

 見よ!
 レム期の訪れのたびにおれは猛り狂っている。自律神経系統の嵐の中 ・・・・ 人生の残滓ではない。今の話だ。

 ・・・・・・・ また海面へ顔が出た。完全なる覚醒。
 何万年の夢だったのか。日はすでに高く、暑苦しく輝いている。

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2021/08/25

ピークアウト?

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 連日新規感染者数の増加が伝えられているが、東京都の発表を見ると、この1週間で重症者は明らかに減少している。これで高止まりしている死亡者数が減少に向かえばとりあえずは近々ピークアウト、ということにはならないのだろうか?
 解らない。メディアは重症者数が最多更新したと伝えているが、実際どうなんだろう?
 
 各種報道の仕方にはこの1年間、ずっと疑問を抱き続けてきた。確かに我々が初めて相手にする難敵で、起こっていることのすっきりした解釈がそう簡単にいかないことなのは分かっているけれど。

 

 

2021/08/23

コロナの厄介な後遺症 ・・・ 息切れ・呼吸苦

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 コロナ感染から回復後も後遺症に悩まされる人々の存在が報道されているが、たしかにここのところ、自宅療養が解除になった患者さんの受診が続いている。

 発熱外来でPCR陽性となり、軽症と判断され、発症から2週間ほどで自宅療養は不要と保健所から伝えられても(今のところ検査結果の集約、療養体制の判断・指示は保健所主体)、咳や息切れが続いたり、新たに出現したり(息切れや呼吸苦がひどくなったり)で、(コロナの受け入れができない)我々中規模病院の呼吸器外来受診となる。

 この間、PCR検査以外にはレントゲンなど画像診断はなされていないケースがほとんどだから、患者さんは自分のからだにどのようなことが起こっているのか判断がつかず、不安だ。
 オンライン診療で治療薬の処方が行われても、テレビ電話程度では限界がある(むろん、その対応だけで済む場合も少なからずあるのだろうけど)。

 発症から3週間程度経っているとはいえ、コロナ感染の確定診断はついているから、やはり診察では少々緊張する。
(疑い例対応が多かった時期は完全武装の検査着だったが、現在は発熱外来として完全に一般の動線と切り離されており、診察室では通常のマスクとフェースシールドのみ)

 問診→聴診→検査が通常診療の原則ではあるが、去年からの経験を踏まえ、問診→CT→聴診の順。
 CT画像で肺炎の趨勢がほぼ見当がつく。まだピークを越えていなのか、納まりつつあるのか、すでに治癒に至っているのか ――。
(これはぼくの臨床能力に帰結するものではもちろん、ない。この1年間に専門医の間でやり取りされた多くの情報交換の賜物である)。

 自覚症状としての息切れ・息苦しさと、CT画像上の乖離の多いことがほとんどだ。
 つまり、咳とか息切れ・息苦しさの程度(じっとしていても苦しいのか、歩いたり階段を上り下りすると苦しいのか、仰向けになって寝ると苦しくなるのか ・・・)と、CT画像から推定される呼吸機能の温存程度(テレビなどでよく表現されるのは「肺が真っ白になってる」。肺胞部分はCT上黒が主体)。
 さらにパルスオキシメーターで酸素飽和度を測定しても(歩行後に呼吸苦症状が出ても)、全く低下しない。

 気のせいばかりではない、現状で実施可能な検査では簡単に測れないファクターがあるようだ。

 治癒過程にあると、損傷を受けた肺は広がりにくくなっているという事情も関与しているか。これはCT所見で推測可能。
 (皮膚のケガが治る過程で、かさぶたができるとそこの皮膚は引っ張ても伸びないのと同じようなものといっていいかもしれない)。
 あるいは闘病中の臥床が長くなり、筋力(特に下肢の)が落ちて、労作に困難感を生じている場合もある。
 重要なことは発症から治療ないし経過観察期間を過ぎて、我々のような一般の呼吸器外来を受診できる患者さんは、現状からさらに進行することは(おそらく)ないだろうということだ。
 
 予後は決して悪くはない(長引くにしても)と話し、CT画像を提示しながら、「この線状につながった濃い部分は怪我に喩えればかなり治癒したかさぶた、そのまわりのやや灰色っぽいところは、まだかさぶたにならず、傷口がグジュグジュと炎症がくすぶっている状態で ・・・・・・・・ 」といった具合に説明するとほぼ納得していただける(と思っているのはぼくだけかもしれないけれど)。

 最近は当たり前のように世に喧伝されているパルスオキシメーターに関しても看過しがたいものがある。
 そもそもこの検査が最も正確なのは新生児・乳児であって、成人の場合はあくまで病態変化の判断の目安と考えなければならない。
 だから酸素飽和度が93%を切ったら危険というのもキケンな判断で、もともとの値からの変化の程度・速さを考慮しなければならない。
 98%であった人が短時間に95%になったとしたら急速に悪化している可能性があるかもしれない。

 こういった「常識」を「専門家」たちが声を大にして言えないのは、入院病床の逼迫が背景にあるからなのかもしれない(ホントにそうだろうか?)。

 今は我々一般病院ではコロナ受け容れができず、積極的治療に貢献できないけれど(病院により「諸事情」があるので)、軽症に投与できる治療薬(すでにいくつかある)が早急に認可され、供給されたら、局面は大いに良化するのは明らかだと思う。

 感染者が増えているわりに重症者は少ないという統計はあるにしても、患者さんたちpatientsは苦しさに堪え、戦っている。
 この老生、お手伝いできそうな(と自分では思ってる)場面まだ続きそうだが、言うまでもなく、これは決していいことではない。

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2021/08/20

秋近し ?

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      ビル風も味方にならぬ暑さかな

 日中は暑さが戻り地上での歩行は日陰を選ぶ。
  ビル風は熱風を送ってくるばかりだ。

   で、ひとたび地下鉄に乗るや、冷房いと強し。
     温度差が、きつい。

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 が、夕されば吹く風心地よく、虫の音すだく。
   秋の気配 ・・・・・

 いや、気をつけよ。まだまだ分からぬ。

 負けてはいけない。
  免疫力強化 !

   公園には見知らぬ仲間たちが黙々と走っている。

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2021/08/16

馬はなぜ走るのか

 走って(ジョギング、早歩きでもよい)、汗をかくと(人さまざまなかき方があるだろう)、誰しも(むろん全員が、ではない)、多かれ少なかれ(かなりの差はあるか)、ハイな気分になる(のではないか)。
 アドレナリンが脳を刺激してとか、脳内モルヒネが働いてとか、とはよく言われること。
 なぜ、こういうメカニズムが人間の内部に出來上っていったのか?

 石器時代以来、人間の身体は狩猟による食料確保に適合すべく、進化を遂げてきた。
 生きるために走る。走るために生まれた
 そうして食物連鎖における最上位を獲得した。

 他の動物、たとえば馬はどうか。
 馬は草食動物なので食物連鎖は下位の被食動物(上位はチーターとかライオンなど肉食系)。

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   「馬はなぜ走るのか やさしいサラブレッド学」 辻谷秋人 三賢社 2016年刊行

 副題にあるようにサラブレッドが対象だが(そしてむろん競馬が舞台なのだが)、そもそも「馬は好きで走っているのか」から始まって、「人の価値観、馬の行動原理」「馬だから競馬はできた」と受け、「競争馬に必要な能力」、「馬はどのように走っているか」、「馬はこうして競走馬になる」と展開し、「馬にとっての報酬」「馬にとっての幸福とは」で終わる。

 著者は生物進化の歴史から、馬の動き方、常歩(なみあし)・速歩(はやあし)・駈歩(かけあし)・襲歩(ギャロップ)への脈絡を語る。 ・・・・・・・・ 魚類は脊椎を左右に動かして泳ぎ、上陸を果たした両生類は陸上を泳ぐ、つまり胸ビレと腹ビレを地面に引っかけて前進し、このヒレ=前肢・後肢の動き方は馬の常歩と同一である、爬虫類では速歩を、哺乳類になって駈歩・襲歩を獲得する。二足歩行の人間も両生類の常歩を捨てたわけではない。たとえば幼児の這い這い(あるいは大人の四つん這い)での前進は両生類や馬の常歩(左後肢―左前肢―右後肢―右―前肢という順番)の運肢となる。・・・・・・・・

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 さらに、多くの科学的知見を取り入れ、・・・・・・・・ 四肢骨の構造や筋肉(速筋・遅筋)、走行中の呼吸法、有酸素・無酸素運動の人間との比較、レース中の運肢の変化(スタート、コーナー、直線)、レース距離への適合性、血統の重要さ、・・・・・・・・ そうしてレース現場で実際に起こった状況(ディープインバクト、オフェーブルなど)を解析してゆく。

 加えて、生産牧場と育成牧場の関係、競馬場に関してはダートと芝の違い(単に土と芝だけの違いではない。砂のまじり具合とか、芝の種類・性状の違い、外国と日本の違い)、などなど、競馬に全く無知なぼくにとっても非常に面白い。

 で、馬はなぜ走るのか?

 馬は好きで走っているのではない、人間の要求を受け入れて(否応なしに?)走るようになった。より速く走れる馬となるべく交配を重ね、走るために生まれてきた。走らなければ、走る場がなければ、競馬がなければ、馬(サラブレッド)の生きる場所はない。 ・・・・・・ 著者の結論である。

 しかし、これは動物愛護の観点からはいかがなものなのか?
 最後に筆者は語る。

 彼らは人間から走ることを求められている。 ・・・・・ 走る場所があって、彼らが走ると喜ぶ人がいる。それは悪いことではないし、むしろ幸せなことと言ってもいいのではないか ・・・・・ 実は私たち人間が求めている幸せというのも、案外そういうことではないかと思ったりする  ・・・・・・・・

 食べられないために、走る、逃げる。
 ウイルスとの戦いでは今のところ我々は逃げきれていない(先行逃げ切りの失敗、政治的失策!)、最後尾グループが少しずつ捕獲され続けている(・・・などという表現は不適切か)。

 猛暑と各地で大雨災害を惹き起こすような天候のくりかえしで、思うように走れない今日この頃、たまたま競馬好きの息子が読み捨ててあった本書が一服の清涼剤になったかどうか、いやいや、敵も手を変え品を変え、人類を脅かし続けている。年内にはピークアウト、沈静化できることを切に期待する、祈る。

 

2021/08/12

夕蝉

 

       夕蝉や わがもの顏に 雨上がり

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      久々の暑さ凌ぎかと思いきや、大雨注意報が同梱。
        またもや「今まで経験したことのない」災害のおそれ、か。
          列島全体に悲憤と気疲れが重積してゆく。

 

 

2021/08/11

パラレル・ワールド、リアル・ワールド

 

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 五色の彩りが次第に単一色の闇に向かって収束しつつある天を仰いで、人々は恍惚としている。真昼の猛暑の名残りはまだ燃え尽きないらしい。――― 思わずため息をひとつ。

 と、まだ明るく暮れなずんでいる上空の雲の彼方から、足穂君があの一人乗りのプロペラ機を旋回させながら舞い降り、薄闇の林の中を歩いていたぼくのすぐ間近に着陸したのです。
「やあ、しばらく見ない間にずいぶん大きくなったね。百閒先生と探索したときは少年だと思っていたけど」
「ああ、あんたの年に追い付いたよ」
「それでため口か。ぼくの方はさほど年嵩喰ったとは思ってないんだけど」
「少年は老い易いんだ」
「で、学は成ったのかい?」
「おお、もう、宇宙は極めたようなもんだ。もっともほとんどの奴らは認めんのだが ・・・」
「聞いたよ。恩師の悪口たたいて ・・・」
「ふん、知ってたか。佐藤(春夫)のダンナのこと、ちょこっと批判を垂れたら、ハイ、サヨナラってお払い箱よ」
「それで文壇を去って ・・・」
「諸国放浪の旅ってわけよ」
「なるほどね」
 
 会話を遮るためでもあるのか(そんな筈はないのでしょうが)、足穂君が ―― (あの時と同じく) ―― いきなり尻ポケットから拳銃を取り出すと、あたりの樹々やら、はるか上空の雲やら、四方八方、無茶苦茶に撃ちまくりはじめたのですが 、―― (するとまた、あの時と同じように) ―― たくさんの美しくない月が落ちて来る、地面に衝突して破裂する、砕け散ったかけらが頭に冠のようなものを被って、そこらじゅうに転がりだす、といった光景が再現されたのでした。


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「まだ撃ち足りない、全然足りない ・・・」
 足穂君はつぶやき、茫然としていたぼくに一瞥をくれると、
「それにしてもヤケにシケた顔してるじゃねえか。ご時世とはいえ ・・・」
「ああ、まったくそうなんだ。世の中みんなパラレル・ワールドだなんて騒いでるけど ・・・」
「そうじゃねえってんだろ?」
 ぼくは頷きました。砕け散った月たちを見下ろしながら、
「世間じゃ、魑魅魍魎のように跳梁跋扈する不埒なこいつらと、終わったばかりの大運動会が全く違った世界に同時に存在するものだ、なんて言ってるけど ・・・」
 言いかけると足穂君は、
「そりゃあ違う。ふたつ別々に見えるのは実は全く同次元に同時に存在するものだ、な?」
 と、ぼくの抱く感懐を見透かすかのように言うのです。


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 同じひとりの人間の中に、善と悪、良・不良、愛・憎悪 etc  ・・・ 相反する感情が共存している、それが人間てもんじゃないか 。
 ぼくはまた頷きます。
「パラレル・ワールドじゃねえ、すべてリアル・ワールドだ」
「同感だね、まったく」
 祭典として運動会が開かれたら観る、観れば楽しい、大いに感動もする ―― 当然だ。開催に反対していたくせに「手のひらを返して」という批判は、的外れもいいところだ。
 足穂君のいう通り、すべて、ひとつの個それぞれに内蔵されるリアル・ワールドなのだ。


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 足穂君とこうして話をしているこの林の中が、リアル・ワールドとは別次元のパラレル・ワールドに感じてしまう、これはちょっと不思議なこと、と思っていると、
「なあ、そのうちオレのことをもう少し詳しくブログに綴ってくれよな」
 足穂君は言い残すとまたプロペラ機に飛び乗り、あっという間に雲の彼方へ飛んで行ってしまったのでした。


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2021/08/09

祭のあと

     

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                 しばらくは 祭の余韻 原爆忌

 

      

2021/08/05

今年の百日紅

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 暑い。むやみに暑い。猛烈な暑さだ。
 いつの間にか今年も百日紅が咲いている。
 この季節に生まれた娘も早や二児の母となり、シンガポールで最初の夏を迎えている。
 安全・安心は東京とは比較にならない。外国人へのワクチン接種も始まっているとのこと。

       さるすべり 異国情緒で咲きにけり

 この花にそんな趣きはないのだが、はるか彼方へ連なる飛行機雲を見ているとそんな気がする。

 

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      これまでの「今年の百日紅」のうた

2021/08/01

オリーヴ・キタリッジの生活 

オリーヴ・キタリッジ、ふたたび」は、すでに老域にある主人公の夫との死別、74歳での再婚、その相手との死別、独居中の心臓発作、入居した老人ホームで過ごす86歳までを描いた、老人文学とも呼ぶべき作品であるが、本作はこれに先立つこと10年程前に発表された。
 元中学校の数学教師だった主人公の40代から70代までが前作同様、13の短編からなる連作で描かれている。

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  「オリーヴ・キタリッジの生活」 エリザベス・ストラウト 2012年 早川文庫(2010年刊)

 各連作中、主人公はしばしば入れ替わり、大元の主人公オリーヴは時に脇役、端役を演じることで全体の流れの中で印象をかえって際立たせており、これは「ふたたび」に繋がる手法。
 時間軸が所々でいきなり前後したり(回想とかで)、小さな町の世界ながらたくさんの登場人物の名前が次々に飛び出してくるので(意図的な不親切っぽい作為?)油断ならない、時々読み返す必要がある、と、これも「オリーヴ・キタリッジ、ふたたび」で提示されていること。

 40代のオリーヴはまだ女盛り(大女だが)、1歳年下の夫ヘンリーは人間的にいわゆる「良い奴」で、自己主張が強く(あからさまな態度にはあまり出さないが)頑固なオリーヴとは必ずしも相思相愛(古い表現か)とはいえず、意見の衝突することはしばしば。

 もう若くはないヘンリーが娘ほどの年齢のアルバイト女性に対してかなり思いつめた恋情に駆られたり(むろん成就することはない)、オリーヴもひょっとした隙間に若い男に好感を抱いたり(70代になっても)、と、お元気というよりは、人間が年齢に関わりなく内蔵する感情・意志をさり気なく表現している。著者の人間性によるものなのだろう。

 中年から現役を退いた老年期、夫は脳卒中で倒れ、介護施設で他界し、溺愛する一人息子は鼻っ柱の強い嫁と離婚し、「多産系」女性と再婚し、自分から離れてゆく(子離れができないのは一種哀れ)。

 この間、教え子の自殺企図、街の顔役の愛人(若くない)とそのかつての恋人の苦い再会、老境に近い男女の不倫・離婚への幻想、若い娘の摂食障害と持病の心臓病での急逝などなどが、綾織物のように入り組みながら語られる。

 ―― オリーヴは目を閉じて、土壌や、出てくる植物のことを考えた。すると学校の隣のサッカー場を思い出した。教師をしていた日々のこと。・・・・・・・ ああいう秋の日の空気には美しいものがあった。また汗をかいて脚を泥だらけにした若い身体にも、思い切りヘディングしようとして突っ込む元気な姿にも、美しさがあった。ゴールが決まったときの歓声も、がくっと膝をついたキーパーも、また美しかった。・・・・・・・ そういえば、と思い出す日々がある。まだ人生の盛りだった中年の夫婦として、ヘンリーと手をつないで帰っていった。ああいう瞬間には、静かな幸福を味わうという知恵が働いただろうか。おそらく、わかっていなかった。たいていの人間は、人生の途中では、いま生きているということがわからない。だが、いまのオリーヴには、何かしら健康な、純粋な、記憶として残っているものがある。あんなサッカー場の瞬間が、オリーヴの人生にあった最も純粋なものかもしれない。そのほかに純粋とは言いがたい記憶も多々あるということだ。・・・・・・・・・・

 だれしもが老いて、あるいは老いずとも、いずれこの世を去る。良い悪いではなく、どうにも思うに任せぬままの生きかたで存在する、せざるをえない。どの登場人物にも儚さ、やるせなさといった風情が漂う。

 最終場面で互いに連れ合いを亡くした老人同士が川端で出合う。

 ―― いま青い目がオリーヴを見ていた。弱々しく、また誘うような、不安げな目、と思いながらオリーヴは静かに腰をおろし、手のひらをジャックの棟にあてた。心臓の鼓動がわかる。いずれは止まるのだろう。どんな心臓も、いつかは止まる。だが、きょうはまだ“いつか”ではない。日当たりのよし静かな部屋というだけ。・・・・・・・ 若い人にはわからない。・・・ この男に添い寝して、その手がオリーヴの肩に、腕に乗っていて ・・・ そう、若い人にはわからないだろうが、くたびれた年寄りになっても、引き締まった若い肉体と同じように、求めたいものはある。いつだって恋愛を無駄にしてはいけない。・・・・・・・・

 かれらのさりげない挙措や装い、背景をなす美しい自然の移ろいを描きながら、そんな人間に対する作者の目は暖かい。

 ―― オリーヴの目は閉じていた。疲れた全身に、これでいいのだという感謝が ―― また、これでいいのかという気持ちも ―― 波になって寄せていた。・・・・・・・・ よくわからない。この世界は何なのだ。まだオリーヴは世を去ろうとは思わない。 ――

 ふたりは寄り添いながら「オリーヴ・キタリッジ、ふたたび」へと晩年の旅を続ける。

 2作の連作集は本作から「ふたたび」へ、各短編順番通りに読み進むべきものだ。



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