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2021年4月の記事

2021/04/29

見えない敵、見える敵 : アップルウォッチで不整脈ウォッチ

 見えない敵、ウイルスが猛威をふるい続けている。見えないから厄介なのだ。これが見える化できたらどんなにかいいものか・・・

 時おり出現する不整脈にぼくは気鬱になる。
 心電図上で確認したときの自覚症状と頚動脈の拍動蝕知で、どんなタイプの不整脈が起こっているのかほぼ判断(推測)できるようにはなった。しかし、指を頸動脈にあててその状態から、頭の中の記憶で心電図を想像するわけで、ホントに正しい確認かどうか、判断はできない。

 オムロンの簡易心電計は悪くないが、常に持ち運ぶわけにはいかない。

 今までのいわゆるスマートウオッチでは心電図の測定はできるのもあったけれど、リアルタイムではない。
 自覚症状が現れたときに画面にタッチし、それをスマホのアプリ上で確認するので、判断するまで時間がかかる。

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 最近医療機器としての承認を受けて、アップルウォッチでリアルタイムでの目視が可能になった。
 脳梗塞に深く関連する心房細動の早期診断が主たる目的で開発されたものだが、ぼくを悩ませる期外収縮の判定も可能だ。
 つねに装着しておき、自覚症状があったときにそれが何者なのか、即座にこの目で確かめられる。
 ぼくが待っていたものだ。さっそく通販で購入。

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 走りながらおかしな動悸を感じたとき、すぐその場で確認できるから、走り続けていいものかどうか、大いに役に立つ。
 さらにいいのは、iPhoneと連動するので、すでにインストール済みのランニングアプリがこのウオッチでのスタートと同時に自動的に始動し、あとで走行ルートや1キロごとのスプリットタイムが分かる。

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 走り終わって何かおかしいぞと思って測ったら2発の心室性期外収縮(感じてから測定したからこの間のタイムラグを考慮すれば2発以上だ)。
 計測中の30秒間で消失したので納得、安心。

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 帰宅途中に違和感あり、測ったら計測時間目一杯の心室性期外収縮の2段脈。追加測定の30秒間は異常なし。
 30秒とちょっとの持続だったわけでひと安心(とは言え、気分は良くない)。

 しかしまあ、とにかく、測定前から2段脈だろうと思っていたので、それがイメージ通りに(大脳の記憶を手繰り寄せることなく)即座に直接視覚で確認できるのは、悪くない。
 ぼくにとって最悪のパターンはこの不整脈発作が持続して致死的なものに移行すること。これまで確認したこの発作は教科書的には、処置不要のものではある。

 外来患者さんの中に、動悸を訴える人がときたまいるが、これまでは脈の自己測定というのを勧めてきた。
 頚動脈に指をあててその拍動を感じ取ってもらい、同時に患者さんの手首の脈をぼくが取って、そのリズムを教える。・・・トントントントン・・・わかりますか? ・・・はい、わかります・・・この自己測定を練習しておいて、動悸が起きたら1分間の脈拍数(15秒測りそれを4倍する)と規則性(トントントンがトトトン、トトーンとか規則性を欠いていないか)を確かめる。
 それでもって大体の判断がつくし、24時間心電図検査の必要性の有無を検討できる。
 今後は、患者さんによっては、スマートウオッチの使用を勧めたいと思う。

 見える化は有用。見えないウイルスは厄介だ。きょう東京の新規感染者数は1000を超えた。当分巣篭りだな。

          巣篭りを慰めむとや春の雨

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2021/04/26

初めてのオムライス と、 ワクチンの副反応 と

 きのうから緊急事態宣言だが、前夜飲み過ぎたのか、寝起きが悪く、昼近くまで眠ったり起きたりを繰り返した。
 そんなに疲労がたまっていたはずはない。これもワクチンの副反応なのか。
 気を取り直して、昼食にオムライスを作ってみた。テレビ番組でタレントさんが専門家の指導で作っているのを見て、簡単そうなので挑んだ。なんせ生れて初めての挑戦である。

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 タマネギ、ピーマン、ニンジン、ソーセージをみじん切りにし、フライパンでオリーブオイルで炒める。強火から弱火へ。
 別容器に卵2個と牛乳(ちょっと入れ過ぎたか)をかきまぜ、均一になるまで溶き合わせる。
 サトウのご飯をレンジでチン(2分)し、フライパンでみじん切りにしたものとかき混ぜ合わせる。
 かき混ぜたご飯をフライパンの左半分に寄せ、右半分にケチャップをたらし、塩・胡椒を加え、ヘラでもって押さえつけるようにぐちゃぐちゃに熱すると、左半分のライスと併せて満遍なく炒める(ごはんの白がなかなか色づかない)。
 別のフライパンに溶いた卵・牛乳を広く敷き、泡立つまでかき回すと、その右半分くらいにまぜたご飯を盛り、卵を左からヘラで包み上げ、ほどほどのところで(ごはんがこぼれかける)、大皿に向かって一気にひっくり返して落とす。
 (この間、妻が横から、ああでもない、こうでもないと口出しするのを堪える)
 ペーパータオルで全体を包み込み形を整える(ごはんが少し余り出る)。上にケチャップを落して完成!
 やや薄味だったが、まあまあ、食べられた。自己評価は60点くらいか。コツは分かった(ような気がする)。
 次回は80点を目指す。

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 接種部位の痛みがまだ残っており、何とはなしにだるさあり、走る気にはならず、そうかといってこれではいかんと街に出た。
 1万歩のウォーキング。

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 ふだんから見慣れているはずの光景なのに、とても新鮮に感じられたのは、歩きながら目にするから、かな。

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 どの公園にも子どもたちの歓声が溢れている。巣篭りなんぞしてられないよな。

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 こんなに高いクレーン、よく倒れないな。いや、倒れて大事故に至ったのがあったっけ。

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 クレーンが倒れない不思議さをいうなら、飛行機はなぜ空を飛べるんだ?
  最近、やたらとわが上空を低空で飛行する。羽田着のルートが変更になってからだ。
 大丈夫なのか? 部品が落ちたって話があったぞ。・・・爆音が近づくと無意識に道路脇へよけている。

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 お寺に樹齢500年のカヤの木がある。
 根本の地面に平らな石が2つあり、そこに両足を乗せ、両手を幹に当てて大地、自然との一体化を感じてください、との説明書き(このご時世、接触感染予防策があちこちで実施されているが、ここにそんな文言はない。それだけ参詣者が少ないということなのか)。
 指示通り、目を閉じて両手から両足へ、呼吸を整えながら瞑想を試みる・・・が、雑念は去らず、パワーを感じ取られず。修行が足らんのだろう。

  
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           行く春に迷ひ出づるや昼の月

  
 きょうは午後からの仕事。
 ぼくと同じく先週金曜日にワクチン接種を受けた女性スタッフが、おとといも昨日もだるくて眠くて仕方なかったと。
 やはりあれは副反応だったのだ。2回目はより強く副反応が出るという。さて ・・・・・・・・

 

2021/04/24

ワクチン接種

        
 どうしようかと迷っていたけれど、これまで世界でも、また日本でも、相当数の接種が行われ、発症予防効果が明らかなので(それに副反応も大したことなさそうなので)順番が来たら受けようと思っていた。

 で、きのうが予定日。
 午後、外来がちょっと途切れたタイミングを見計らって射ってもらった。全く痛くも痒くもない。ホントに接種されたんだろうかと思うくらい呆気なかった。
 外来ブースへ戻ろうと思っていたら、15分間はここで経過観察です、と接種会場のリハビリフロアに留められた(数人の患者さんがその分、待たされた)。

 夜は普通に飲んだ。飲んで(大した量ではない)、さあ、寝ようか、と思い始めたころから注射部位が疼きだした。夜中に痛くて眠れなかったら困ると思ってアセトアミノフェンを服用(500mg)。
 痛みで眠れないとか、腕が上がらないとか、39度熱が出たとか、先行接種者たちから色々聞いていたが、大したことはない。きょうは午前中、支障なく外来業務遂行できた。
 2度目の方が副反応が大きいとか、高齢者の方が副反応が少ないとか、これも様々な言説が飛び交っているが(確かにそのようである)、とにかく受けるべきなのだろう、現在のこの状況を見れば。次回は3週間後。

 それにしても遅い。
 ぼくよりもっと年上のドクターが接種を受けられず、高齢者施設の入居者にワクチン接種を行うなんておかしなことが、すぐ周りで起こっている。
 近々解消されるのではあろうけれど、気分的にすっきりしない。

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 でもって明日から3度目の緊急事態宣言である。
 当分の間の「禁酒令」だから今夜は駆けこみ飲食。家族3人、それぞれ好きな場所で、好きなように済ますことになった。
 狙い目は当然ながら「疎」な店。前に行った居酒屋の再訪となったが、予想を裏切らず、疎、である。店の彼らもやけっぱちなのか、ワインを頼んだら、溢れんばかりのサービスぶりだ。
 そっとひとり静かに飲めるのがいい、なんてのんびり構えていたら、ラストオーダーです・・・(7時5分前)。
 徳利にまだ残っていたけど、じゃあもう一本、と。

 帰路、8時前なのに駅前は人出が多い。みんな同じ気持ちなのか・・・たぶん。
 明日からはホントに街の灯りが消えるのだろうか。東日本大震災の時のように。
 見えない敵との持久戦はまだまだ続くのだろう。
 注射部位の痛みはずいぶん軽減している。

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2021/04/20

山開き

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 わがポツンと一軒家の山開き。
 コロナ禍で、行き交う車に首都圏ナンバーは少ない。
 不要不急の外出は自粛してください、と首都高に掲示が出ていた。
 車で出かけて山中に籠っているのだから咎められる筋合いはない、と言い張ってみたところで、後ろめたい気持ちがないわけではない。

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 それでも、やはり、都会を離れれば伸びやかな心地。燗酒がすすんだ。
 朝、山道を駆ければタンポポがあたたかく迎えてくれている(ような気がした)。
 菜の花畑は満開だ。

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         菜の花に潜みソーシャルディスタンス



2021/04/16

人生7周回目

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 誕生日。平日にもかかわらず、息子ふたりが祝ってくれたのはコロナでリモートワークのおかげ(かな)。
 干支を6周走り終え、明日から7周目に入る。

 ジョギングしていて目にした。

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          藤棚に去年(こぞ)の命は戻り來ぬ

 高校生の頃だったか、大学生のときだったか、母が庭に咲く花を見て、「花はいいね。一度散っても次の年にまた咲くから」と言ったのを制して、「それぞれの花はその年に命を終える。したがって次の年に咲くのは前年咲いた花ではない」と言い放ったものだ(よく憶えてるね)。
 種は保存されるが個は一代限り、と。ずいぶんと傲慢、知ったようなことを・・・・・

 植物にもウイルスは寄生するらしい。
 感染でダメになるのもいるし、良い遺伝子を注入されて暑さ寒さに強くなるのもいるという。
 かれらウイルスたちは花から花へミツバチのように飛び回り花の命を繋ぎ、自分自身も寄生のたびに己れをコピーし(花を枯らしてしまっては自分も生き残れないのでほどほどに)、世代交代してゆく(のだそうである)。

 地方によっては、死んだ人の魂は近くの山に入り、盆とか正月に戻ってくるという信仰がある。あながち原始的、荒唐無稽と等閑に付せない気がする。
 年のせいだろうか(今になって)。

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  命は受け継がれてゆく、それは間違いない。


2021/04/12

なぜ山に登るのか? 「ぶらっとヒマラヤ」

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        「ぶらっとヒマラヤ」 藤原章生 (毎日出版 2021年3月刊)

 中学生のときからハマっている山登り、58歳の著者は還暦を前に標高8000メートルのヒマラヤに挑む。
 なぜ山に登るのか?
 落石や雪崩、滑落、高地では低酸素の危険も加わる。にもかかわらず、なぜ?
 これまでも山登りで幾度となく危うい経験を重ねているのに性懲りもなく、なぜ?
 結婚し、家庭があるのに、なぜ?
 27歳でエンジニアから新聞記者へ転職した著者は海外経験も豊富で、各赴任先で登山家を含む多くの知己を得ており、この疑問に対してその人脈からも様々な示唆を汲み上げようとする。

 東京での高地トレーニングののち、現地入りし、ベースキャンプから時間をかけて上り下りをくり返し、低酸素への馴化を図りながら徐々に露営地の高度を上げてゆく。
 低酸素状態に身を置くことで身体のみならず脳にも様々な変化が起こる。

 極限状況での不思議な多幸感。あるいは逆に自己嫌悪。
 普段は抑制できていた感情コントロールのベールが酸欠状態では否応なしに剥ぎ取られ、己の本性が現れた結果なのか。過去をあれこれと事細かに思い出しては悔いて自己嫌悪に陥り、一方で目覚めると同時にひどい多幸感に襲われるという体験。感情のコントロールが利きにくくなるらしい。
   ・・・・・・・・・・ アスリートが体験する「ゾーンに入る」とは似て非なる、いや全く異なるものか。

 恐怖とはそもそも何者か。著者は先人の言葉を借りて解釈する。
 直面する危機的状況に対して「嫌悪」の情が起こる。この「嫌悪」の情によって危機的状況が「害」をもたらす、と感じるとき生ずるのが「恐怖」であり、「嫌悪」の情がもたらすであろう「害」を払いのけられるという希望が湧くとき、払いのける抵抗力は「勇気」となる。当然ながら両者は表裏をなす。
   ・・・・・・・・・・  分かりづらいけど、分かる。

 高地登山が孕む危険は当然、恐怖へ繋がるはず。
 今まで体験した恐怖をなんとか凌いでこられたのは何か?
 海馬に蓄えられた危機体験が扁桃体で引き起こされる恐怖の感覚を調節するらしい。経験によってこの調節システムが「いつでも作動できる」ものとして自分の奥に潜んでいるのではないか。
   ・・・・・・・・・・ なるほど、そうかもしれない。

 人は死に瀕したりパニックに襲われたりしたとき、その短時間であらゆることを考え、「生き残る」というただひとつの目標の下、あらゆる可能性を疑似体験するのではないか。
 その体験により、自分の時間がどれほど貴重で、価値あるものかがわかる。
 山を無事に下り、死なずに済んでよかったと単純に思う気持ち、その気持ちをすがすがしく健康的に抱えながら、また改めて山に行く。倒錯的で矛盾に満ちた行為かもしれないが無意味ではない。平生は忘れている「ありのままの心」を、極限状況の中で実感できる。極限の状況から抜け出すことは「創造的行為」。そのために訓練が必要、そこにこそ山に登る意味がある。
   ・・・・・・・・・・ この境地は是認しがたい。自ら危険に身を晒すことで生きる意味を確認する、などと。

 ヒマラヤから帰国すると人の気持ちが素直に自分の中に入り込んでくるようになったと。
 この解釈として著者は述べる。・・・高所では脳細胞の多くが死滅するが、単なる損傷ではなく、脳の刷新、再起動と捉えられないだろうか。眠りで海馬の記憶が整理されるように、低酸素による脳の刷新で、好奇心をつかさどる部位が生まれ変わり、子供の頃のように素直にひとの気持ちが自分の中に入り込んでくるのではないか。
   ・・・・・・・・・・ 面白い解釈だと思う。

 若い時と定年目前では人生における経験量は当然ながらまるで違う。ということは人情がらみの記憶も桁違いに多いから、同じ情景・状況に接してもそれに関連づけられて反応する程度は若いときとは全く異なる。
   ・・・・・・・・・・ まったく同感。

 感涙ポイントにヒットしやすい。映画を見ても若いときは何とも思わなかった場面で突然涙が出たりする。私たちは大人になっても子どもの頃と同じように日々感動している。ただ大人だからそれを表に出さないように抑えているに過ぎない。
   ・・・・・・・・・・ いや、これは違う。涙腺刺激に対する反応閾値が加齢とともに下がっている、いい悪いの判断は別にして、一種老化現象だと思う。

 同様のことが低酸素状態という極限状況でも起こるのではないか。
   ・・・・・・・・・・ なるほど。

 なぜ山に登るのか。もともと人間は太古から山に登っている。仙人思想や山岳宗教があるけれど、それらが出現するずっと前から人はわけもなく山に登っていたはず。もともと人間の中にプログラミングされたものがあるのではないか。
   ・・・・・・・・・・ そう思う。たぶんそうなのだ、人はなぜ走るのか、に共通するものでもあるか。
    
 人が生れて消えるまで、それは生命という一本の線にたとえられる。
 山登りとは、その一本の生命の中で、その線のしなりやゆがみ、はかなさを試してみる加圧実験のような、疑似体験のような試みではないのか。
 もしかしたら太い命の線のなかにいくつも「疑似生命線」のようなものを隠し持っていて、それをあるときふと試さずにはいられなくなるのではないだろうか。
 登山でなくてもよい。一見無意味な行為を人間が続けていくのは、それを試さずにいられないから。
   ・・・・・・・・・・ そうか、そういう思いでの山登りなら分かる気はする。

 ・・・・・・・・ 死の恐怖をいかにして克服するか。そのための「自己調節能力」をどれほど磨いてきたろうか。
 目まぐるしく日々は過ぎてゆく。ふと気づいてもうこの年になったのか(と振り返り)、あと少しであの年に至るんだ(と「老後」の日々を想像して)、とため息をつく、・・・これは違う。
 「今」という時をきちんと生きる。月並みなことだけれど、月並みなことが営々と、だらだらと続いているのは、危機的状況、極限状態を日常の日々体験することがあまりないから、なのか。
 唯一(今のところ)ぼくの心根を脅かすのは、前触れもなく気紛れにやってくる不整脈。心臓に鎮座するココロが搖らぐ

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2021/04/11

穴場巡り

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 まん延防止なんとか条例が出る。自粛、自粛。
 いったいこの1年間何してたんだ! と、為政者たちへの怒り心頭。

 でもね、色々、人さまざまにそれぞれの工夫はあっていいんじゃないか。

 仙台へ行きました、鎌倉へも行きました。密は避けられるのです(現在はもうダメ!)。
 家族(夫婦、息子ふたり)との会食も重ねて来ました。
 個室か、個室に近い作りの店を選ぶ。むろん時間帯は限られるが、どこもガラガラである。みな、困っている。
 確かに近距離で客同士が大声で盛り上がるような店は論外として、多くは精一杯の、涙ぐましいといえるほどの工夫を凝らしている。
 店にしてもホテルにしても感染が発覚したら致命的なのだから。

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 県をまたぐ旅行もしましたヨ。
 梅の頃、熱海の梅園は密だったけど、お隣の湯河原は訪れる人は少なかった。
 房州。江戸情緒を残した佐原でも鴨川の温泉旅館でも丁重なおもてなし。こんな折り、ようこそ来て頂きましてと。

 それにGoToキャンペーン後も、背に腹は代えられないからなのだろう、どこも価格を落としている。お得だ。特に日曜の宿泊は空いているし、穴場である。

 不謹慎? ・・・ 後ろめたい気持ちがないわけではない。
 それよりも、「俺は大丈夫」という“正常性バイアス”の方がはるかに強い(都合がいいネ)。地域の経済に貢献しよう、という気持ちは、あまりない(自分ファースト)。

 穴場といえば、毎晩同じ顔を突き合わせての食事にも飽きた、今夜は各自別々に、という妻の提案(というより主張、ないし強要)で、ゆうべはひとり、とある居酒屋へ出掛けた。以前も来た店。
 店内は今回もガラガラである(それを期待し、確認して入店した。半分もお客さんが入っていたらおそらく引き返した)。注文も早い。
 ただ要注意。限られた時間だ。飲み食いのペース配分、気を附けなければならない。
 判ってはいるんだが、ついつい ・・・・・・・・ 果たしてきょうは寝ざめが悪かった。

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 自粛、自粛で閉じこもり体力を落とす、これは高齢者で特に顕著。だから朝夕の人出が少ない時間帯に積極的に外出しなさい、とぼくは患者さんにいう。ただ、当分、若い人たちには近づかないようにいようネ、とも。

 膝を痛めて走るのを控えていた。
 きのう、5日ぶりで6キロ半ほど走ったら、今朝は起きられなかった。酒ばかりが翌日に持ち越すわけではない。何事も己を知ることは重要である。
 
 きょうは8キロとちょっと走った。負けるもんか。コロナにも、世論にも、そして加齢にも。

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2021/04/09

日々これ斯くの如し

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 通勤電車で立ちながら本を読む。
 ページの向こうの視野にスマホをいじっている姿が入る。
 素早い指の動き、おそらくLINEにメッセージを送っているのだろう。
 若い(?)男性客である。
 その動きが止まらない。ゲームにのめりこんでいるのではなさそう。
 チラチラ、チラチラ、とにかく動きが止まらない。
 どんなやり取りをしているのか。本に目が集中できない。
 場所を移動した。

 ハイヒールの女性が前を行く。
 足を踏み出すたびに細いヒールが斜めに着地を繰り返す。
 あれでよく歩けるものだと思う。骨盤に歪みがあるのかしら。

 横断歩道で信号を待つ。
 赤から黄色になり、左から車が走って来た。
 間に合うはずない距離なので、赤に変わりそうなタイミングで一歩踏み出す。
 と、車はクラクションを鳴らしながら突っ込んでくる。目の前を通り過ぎたときは完全に赤。
 チッと思って運転席を睨んだがドライバーの表情はわからない。ちょっとこちらを向いたようにも見えたが。
 逆の立場だったら、自分にもありえそうなシーンだ。
 きっと運転手は「悪かったなあ、停止するべきだった」と後悔しているような気がした。

 オフィス街のクリニック。
 診察の合間にあ~あ、っとため息をつく。
 声に出したつもりはなかったが、通りがかりの事務主任の女性が笑う。
「金曜になるとどうもね」
「わかります、その気持ち。週末ですもんね」
「でもぼくは毎週金曜に来るわけだから、毎回ここでため息ついてるのかな」
 女史笑って答えず(心自ずから閑なり・・・別に天地の人閒に非ざる有り、か)。

 週末である。
 月~金、毎日、仕事する場所も時間帯も変わるからなのか(たぶんちがう)、日々の流れがむやみに速く感じられる。
 歳をとると時間の流れが早くなる、とはいう
 こうしてどんどん年をとり(とってきた)、気がつけば早やこの地点までたどり着いている。
 ぼくよりももっと年上の人たちが、80、90を超えてケロッとしている姿をテレビで見ることが多い。
 長生きを意識してきたわけではない、淡々と(かどうか、むろんわからない)日々を生きて来て、現在に至っているということなのだろう。

 これから先のことは分からないけれど、振り返ってみれば早いものだ、などと歎息しておってはいかんのだ。
 「今」を生きる。当たり前のことじゃないか。
  明日まだ半日勤務。まあ、一杯やるか。

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2021/04/07

免許証更新

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 運転免許証の更新に地元の警察署へ行ってきた。

 その前に高齢者講習というのを指定の自動車学校で受けなければならないので(費用5000円)、ひと月前に受講した。
 2時間の講習では、高齢者向けの注意事項を強調した座学、通常の視力検査に加えて視力回復時間・眩光下視力・動体視力・視野角度の検査が行われ、それから実車。二人ずつ1台に乗り込み一人ずつ交代で、注意点を受けながら練習場をひと廻りさせられる。どれも別段難しいものではないし、試験ではないので出来が悪くとも問題ない。

 この講習を受けているので今日は退屈な講習はスキップされ、簡単な手続きで2500円払い、新しい免許証を受け取った。
 次回の更新は3年後。75歳になるから認知機能検査を事前に受けなければならない。
 どんな検査か、興味深い。

 認知症の判断は難しい。
 運転に支障を来すような人は傍から見てもかなり危なっかしいとわかるだろうけど、日常生活が自立しているような場合(この「自立」の定義もむろん人それぞれ、一概には決められない)、自覚できるかどうか、甚だ危ういものとなる。

 高齢の(ぼくだってそうなんだけれど)患者さんを見ているとしばしば感じる。付き添ってくる家族の方々が傍らで示す表情や所作(訝しがったり、顔を顰めたり、苦笑したり)から、自宅での息苦しい状況が容易に推察される。ご本人に面と向かって話しても通じないのがふつうだ。
 
 ひとごとと言ってはおられぬ。自分が主張していることが「標準的範囲」のどのあたりに座を置いているのか、自己判断に家族からクレームがつけられるのはそう稀ではない。
 老害なんて言葉もある。そんな陰口を叩かれる前に身を退きたいとは思うのだが、はてさて ・・・・・

 しかしながら、運転で問題になるのはそういった微妙な(?)症状の有無ではない。運転する身体能力がどれほど維持されているかってことだろう。とっさの判断に認知の程度がどれほど関与するのか、専門的なことはわからないけど、そう思う。

 さて、いつ返納するか。
 友人と飲むとそんな話が出る。一応75歳まではこのままで、というのが内々での共通意志ではあるが、そもそもそういう仲間が集まっての宴なのだ(むろん現在は自粛中であります)。

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 ここのところ右膝が痛むので走るのを控えている(原因は明らか。身の程を「わきまえない」走り過ぎ)。
 今日も警察署までひと走り(自宅から3キロほど)と先週までは考えていたが、自転車で行った。
 数日来の寒の戻りから一転、暖かな陽射しの中、走るのとも車で行くのとも異なる早さで通り過ぎてゆく風景を楽しんだ。
 思わぬところで思わぬ出会いがある。

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2021/04/06

オリーヴ・キタリッジ、ふたたび

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「オリーヴ・キタリッジ、ふたたび」 エリザベス・ストラウト(小川高義 訳)2020年12月刊

 中学校の元教師だったあなた、オリーヴ・キタリッジは老境に足を踏み入れ、過去を振り返りながら老いに向き合います。過去を振り返るといっても単なる過ぎた日々の回想ではなく、「今」に繋がるものばかり。
 昔の教え子やその友人・家族、あるいは同じ町に住む人々が、直接もしくは間接的に、主人公であるあなたと様々なかたちでの交流を展開します。
 13篇の連作物語の中であなたはむろん多くは主役を演じるわけですが、ときに脇役、ないしはチョイ役も引き受け、主人公の座をかれらに譲ります。
 たくさんの人物が登場するから、物語の先々でこの名前は誰だったっけと読み返す必要も読者にとってはあるかもしれません。
 どのキャストもそれぞれに込み入った事情を抱え(平凡な生活を送っているように見えても)、それぞれの個性でもって日々の出来事に対峙する(小説であるからかなり非現実的な場面設定も多々あり)、そしてどの人物もみな、これまでの己れの人生に対する疑問、後悔を抱いている、切ないです。

 この短編集の最初に出てくるあなたは78歳。
 ちょっと頑固でお節介で、でも知的でユーモアを失っていません(教え子たちの評価は色々で、あなたが好きなのもいたし、あまり好きじゃなかったってのもいました)。
 下腹が出て来たのを気にしてジャケットはお尻が隱れる丈のものを着用してるんですね。
 今のところ自分で車を運転して買い物やドライブに出かけることはできる。

 以前から顔見知りだったジャックと(互いに連れ合いと死別していた)結婚し、自宅を売却し、彼の家に引っ越します(家族は当然猛反対ですね)。彼はひとつ年上。女房とは必ずしもうまくやってきたわけではなかった(あとで分かったことながら、どうやらダブル不倫があったようで)が、忘れることはできない。そして今は尿漏れ用のパンツを使用中。

 オリーヴに縁ある人々が関わる問題の数々 ・・・・・・・
 悪性疾患の治療中のかつての教え子(まだ若い)は死の恐怖と戦っています。
 「誰だって死ぬのはこわい」「先生もこわいですか?」「もちろん、死ぬなんて、死ぬほどこわいよ」「うまく折り合える人の話も聞きますが」「そういう人もいるんだろうね」「いくつになっても、死ぬってこわいものですか?」「もう死んじゃってたらいいなんて思って暮らした時期もあるんだけど、やっぱり死ぬのはこわいよ。この年になってもそう。――あのさ、もしかしての話だけどね、ほんとに死ぬようなことになったとしても、みんな、すぐあとから追っかけてる。そんなものよ・・・」
 (・・・みんな行先は同じなのだ。もし行くのなら、そうなる)
 
 そして人種差別(白人vs黒人ではない)、性暴力、自殺、同性愛、 ・・・・・・・ ジャックがハーバード大学で(彼は教授でしたね)、ハニートラップで示談金を払わされ辞職に追い込まれた女(学部長と関係が出来て大学で出世しました)との遭遇。 ・・・・・・・・
 さらに鬱、認知症家族の殺害事件などなど、現代社会の問題が満載でありながら、あなたも他の登場人物も、切ないくらいに健気に立ちまわります。表面上は無事息災、何事もないかのように振舞っている人々もそれぞれに深刻な事情を抱え、嫌な奴に思えた人も実は好ましい人間だった ・・・・・・

 やがてあなたはジャックと死別し(彼はあなたに寄り添って寝ている最中に急死しました)、独居生活に入ったのですが、心筋梗塞で辛くも一命をとりとめ(ICUで人工呼吸管理まで受けるのですがなんと担当医に恋心を抱く! 認知症ではないのですね)、退院後は自宅で複数の介護スタッフの手を借りながらリハビリ生活を送ります(このスタッフもそれぞれに人種問題や貧困、それに政治的偏見といった問題を抱えていますね。たぶんあなたの嫌いなトランプまで登場します)。
 リハビリは奏功し、あなたはまた運転ができるまでになるのですが、雨の日にベランダで転倒し動けなくなり、死をも覚悟した経験を機に、ジャックの広い家での独居生活、孤独感に苛まれるようになり、長男の手配で(この頃には彼もかなり心を開いてくれています)老人ホームに入居しました。

 今あなたは86歳。時々便失禁のおそれがあり、オムツの世話になっています。
 当初はホームの老人たちとの交際に難儀を生じたけれど、打ち解け合う仲間に惠まれ、互いを励まし合うようにして生きています。
 まだ独歩は可能、食事もひとりでできる。毎週施設のマイクロバスでスーパーへ買い物にも出掛けられる。認知症も明らかではないようだ。
 でも、いつまでもこのままではいられないことは身に染みて分かっているんですね。

 物語全編を通して、オリーヴや他の人物たちが日常目にする小さな町のごく当たり前の自然の移り変わり(樹々や花、空、日の光・・・)が美しく鮮やかに描かれ、時とともに過ぎてゆく人間の儚さ、哀しみ、そして何よりも優しさを映すバックグラウンド音楽の役割を果たしています。
 明日は我が身、かもしれません。身につまされる物語です。

 オリーヴ・キタリッジさん、あなたと同世代だったとしたら、ぼくはある年月(3年? 5年? いや、もう少し長く?)だったらともに暮らしてみたいなと思います。でも一生ってなると、ついて行けない気がします。
 とはいえあなたを産んだエリザベス・ストラウトさんにはずっと恋心を抱いてゆけそうに思います。ぼくより7つ年下の彼女がぼくのことをどう思ってくれるか分からないのですが。


2021/04/01

メメント・モリ

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 人間のいのちは永遠ではない、有限だ。あたり前、確実なことだけれども、なんとか無限性に繋がるものがないものかと、哲学・宗教にその回答を求める。そして、そもそも生命とは何だろうと考えると宇宙の誕生に視点が向く。それだけ死を恐れる気持ちがあるからに他ならない。にもかかわらず、日常の中では目を逸らせてしまうことが多い。
 目を逸らすな、メメント・モリ。

 されば死とは何なのか、と語り合うふたり、1946年生れの評論家とひと回り年下の文学者。ともに社会・文化・哲学など広い分野を研究・思索の対象とする。

  「死と向き合う言葉、先賢たちの死生観に学ぶ」 呉 智英・加藤博子 2021年3月刊

 サブタイトルにあるように古今東西の先人たちの言葉を引用・解釈しながらの対談は、重々しくない。悲観も楽観も強調されない(少なくとも対談に記された限り、おふたりとも死を恐れてはいないように見受ける。むろん人それぞれに経験てものがある。色々あったには違いないのだろうけど)。

 さて、死後をどうとらえるのか。

 キリスト教では神による救済、無限の存在を説く。
 しかし絶対神エホバが全能であるならばなぜ、罪を犯すような不完全な人間を創造し、楽園から追放したのか。
 悪が闊歩し、清貧に生きる人々を圧迫する。厄災にせよ宿病にせよ、それを免れる人と不幸な当たりくじが与えられるような不公平はなぜ行われるのか。
 エホバは唯一神ゆえ、これ以外の神は認めないというが、そういうことをいう以上、他の神を意識している、これは実は多神教ではないのか。そもそもイスラム教もキリスト教も起源は同じユダヤ教なのだ。

 釈迦は無限のものはない、一切は有限であり、諸行無常を真理と説いた。
 しかしこの教説もキリスト教同様、時代とともに大きく変容を遂げ、一切空という教えは、浄土系においては死後の世界を想定することで無限との繋がりを主張するに至る。
 南無阿弥陀仏と唱え、西方浄土への往生を念じるわけだが、地動説に従えば日本から見た西方とは裏側のアメリカ大陸では東方になるから、現代では説得力に欠ける。どのように浄土を信じるのか。

 佛教でも禅宗や密教系では修行による「自力での悟り」を目指すが、見方次第ではその修行の厳しさを通して得られる「法悦」とは一種精神病理にも繋がるかもしれない。ある種の薬物で引き起こされる現象にも通じはしないか。同じような「忘我の境」は浄土系の修養においても認められるのではないか。

 有限であることは間違いない自己をいったいどのように受け入れたらいいのか、宗教的なものに仮託できる人は幸福である。そうでないものは悩む。

 孔子らの儒教では「未だ生を知らず、焉んぞ死を知る」、というように形而上学的アプローチを拒否する。

 ならば哲学的アプローチはどうか。

 カミュについて考える。
「異邦人」の主人公ムルソーは、価値観を共有できない世間との摩擦の中でも自分自身を手放さない強さを不条理として受け止めた。「ペスト」にしても「シーシュポスの神話」にしても不条理の絶望の淵からこれに立ち向かう姿勢が描かれている。
 この態度はニーチェにも繋がるかもしれない。

 ニーチェは「神は死んだ」と宣言し、生れ死んで神の国へ行くという直線的、千年王国的な時間性を否定し、永劫回帰という円環構造の時間を示した。
 かれは唯一神教としての神を否定したが、むしろ多神教的、汎神論的思考を持っていたようにも思える。
「超人たれ」というのは要するに、死生観については自分で考えろということ、イデオロギーや宗教によって思考停止するのではない、考え続けよという意味なのだと解すべきではないか。

 自己が有限であるならば、生命を未来へ継いでゆく方法はないものか。
 子孫ができれば確かに遺伝子はそのまま受け継がれてゆく。子どもがない人の場合はどうなのか。
 血筋(DNA)以外にも生命や意志・精神が次世代へ襷リレーされるものとして、柳田国男は日本の「家制度」に着目した。
 「家」を継ぐことで(直系の血筋に限らず養子制度も含めて)、次世代への脈絡が保たれると主張した。
 この社会習慣がわりに広く受け入れられているということは、ユングが述べた無意識の共通意識にも繋がるのではないか。
 
 されば、民間信仰として根強い霊魂について。
 人間は死ぬと一時期冥界と現世の境界領域を漂い(たとえば山に49日とか)、幽冥界からまた戻ってくる。盆とかお彼岸など。現代でもなかなか捨てがたい風習である。捨てがたいということは、どこかで(無意識にも)信じているのではあるまいか。

 そして自然崇拝。折口信夫の「死者の書」は太陽信仰が背景にあるようだ。
 お天道様に手を合わせる、深山の古木、巨岩に頭を垂れたくなる心情に根拠の説明は不要だろう。

 そもそもこの人生に生きる価値があるのか。
 様々な状況で自死、安楽死の議論が出来する。昔からある。例えば姥捨て伝説や即身仏。
 (しかし摂取障害による自死は別。カウンセリングが必要)。

 自死といっても、捨身とか自己犠牲とかは意味を異にする。
 釈迦の前世譚にある捨身飼虎の故事(飢えた虎に我が身を与えた)、宮沢賢治の世界(「銀河鉄道の夜」などの寓話や「雨ニモ負ケズ」などの詩)にも見られるように。

 むろん結論など出るはずもない対話ではある。だが、多くの示唆に富んでいる。
 これをヒントに、ぼくはぼくなりに思考を重ねてゆかねばならない。
 どこまで「覚悟」ができるものなのか、この年に及んでも迷走は続く。

 ただ、互いに知ったもの同士、「肩肘を張らない」対談だからなのか、男性が自分を「俺は」という人称で語るのには違和感を覚えた。文字として残るものなのだから「私は」とか「自分は」と記載してほしかった。身内同士の対話ではない、公の出版物ゆえ。
 どうもこういう公私の境界を不明瞭にする姿勢は近年、ラジオやテレビにも当たり前のような現象になっている。特に若い出演者。視聴者への親近感を意識しているのかどうか、裏側(内幕)を見せる。芸の至らなさを安直な方法で補っているように映るのだが、見る方もそれに引き込まれているのか、たぶんそうなのだろう。でも「ぼくは」こういう風潮は好きではない。年寄りの頑迷固陋な繰りごとと言わば言え、紛れもない年寄りなのだから。

 それにもう一つ。同性愛について何度か話題にのぼったとき、「モ~ホ」ということばをくり返している。LGBT、多様性を認めようとする現在の潮流に馴染まない表現で、差別的で嫌な感じがした。
 これらいずれも本書の内容そのものをいささかでも棄損するものではないのだけれど、ちょっと残念。

 

 

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